大叔母はわたしが中学2年のころから、夏休みに泊まりにいらっしゃいと言ってくれていました。喘息がひどかったわたしは、中2の夏も中3の夏も高1の夏も行くことができず、「残念でしたね。でもまだ夏休みは来年もあるので、来年こそは来て下さい」というような葉書を大叔母の長女Tさんから3回も戴いています。高2になって、漢方薬のおかげで喘息がよくなってきて、ようやく秋田行きが実現したのでした。
そういえば、漢方薬の煎じ薬を持参で行ったのでした。大叔母が、すごいにおいのする薬を50分も煎じて、毎日飲ませて下さいました。
わたしは知りませんでしたが、大叔母はわたしのことを祈っていたのだと思います。あのつらく苦しい中学2年のとき、イエスさまに祈ってくださっていた人がおられたとは……。わたしが死を願う毎日だったことを大叔母は知らなかったでしょうけれど、祈っていたことは確かです。ありがとう、大叔母さん。
お寺での納骨と法要は9日に行われるので、10日は観光をして帰ろうという計画が秋田へ行く2週間ほど前にたてられました。レンタカーを借りて皆で男鹿半島を周遊したいと妹たちが言いました。でもその日は日曜日なので、わたしは教会の礼拝に出席したいと思いました。もし大叔母の通っていた教会がわかればそこに行きたいと……。それができないのなら、9日中にどんなに遅くなっても土浦に帰りたいと願ったほどです。
でも、そのことを言い出すのには少し勇気が必要でした。思い切って母に話すと、「その日は自由なんだから、教会に行ってもかまわないわよ。わたしは男鹿半島行くけれど……」と言ってくれました。
クリスチャンは、日曜は礼拝しなければならないと律法的に考えているわけではありません。『しなければならない』なんていうことはないのです。どちらを選ぶかは自由です。実際クリスチャンの娘は何の迷いもなく男鹿半島周遊を選びました。わたしはそれに対して咎める気持ちはちっともありません。
ただ、わたしにとって礼拝を捧げることが、このうえない喜びであり、1週間の生きる力となっていること。神さまは日曜に礼拝を捧げることを望んでおられるという思いがあるので、なんとしても礼拝に出たいと思いました。どんなに素晴らしい景色を見たり、おいしいものを食べたとしても礼拝に行けなければ幸せと感じられません。
秋田に住んでおられる大叔母の次女(Mさん)が今回色々とお世話をしてくださいました。大叔母の教会に行きたいとMさんに電話でおはなしすると、Mさんご夫妻がホテルから教会まで車で送るとおしゃってくださいました。そのあと、ご両親が葬られている公園墓地に参ってほしいと言われました。
母は男鹿半島に行くつもりだったのですが、お墓参りをしなければ申し訳ないと思ったようで、私と一緒に行くことになったのです。
写真は天徳寺です。
つづく