あの日は暑かった。終戦の日。
越後の山奥の村。豪雪地帯で冬、多い日には一昼夜で50~80Cmもの積雪があった。おおむね半年間、何らかの形で雪との関わりが、住民のだれにもあった。私は国民学校一年せいか二年生。雪のない時期には幹線道路には、日に何本かの「青バス」緑っぽい色のボンネットバスが走っていた。
バスに乗ることもなく、偶然遭遇したバスの後ろを追いかけたものだ。排気ガスの匂いが、子供にとっては珍しく、普段の生活では馴染みのない匂いだったからだ。
お盆の最中、僅かな「おこずかい」を握りしめて、学校近くの子供相手の店に行くが、買うものが何もない。つまり、商店に売るものがなかった。(甘いものはサッカリンもなく、その後芋飴が出てくる)
「ニッキの木」というのがあって、その根っこを掘って泥付きのまま、小分けして、鍋で煮て、その煮汁にセロハンを細切りして、こよりに束ねて、鍋に先端を突っ込み、外に出して、乾かしたのが、10本10銭とか15銭とかで売っていた。そんなものを買って舐めていたとき、付近の家々から主婦が飛び出してきた。(数人固まってヒソヒソと)
ラジオを聴いていたのだ。雑音が多く、まともには聞こえない。ラジオでは「天皇の玉音放送」が流されていたのだった。
何が起こったのか、わからないし、玉音放送自体も聞いたのは初めてのこと。今のが天皇陛下のお声であったのか?。男衆はいない。老人を除き五体満足で健康な男はいなかった。赤紙一枚ですべて徴兵されていたからだ。(堪え難きを堪え忍び難きを忍び)
まもなく「ポツダム宣言」が流れ、日本は連合国に無条件降伏した。それからは、世が乱れ、米軍が進駐してくるとの情報、少しでも若い女はびくびくした日々を送った。そのころ、満蒙開拓団でも、塗炭の苦しみを味わっていたのだ。小さい子や赤ちゃんは死なせてしまったり、現地の人たちに預けたり、逃げる 途中で女や娘たちは、汚い衣類を身にまとい、顔に泥をぬったり、くさい匂いと年齢がわからないようにして逃げまどっていた。男はシベリアに送られ、開拓に強制労働。体力のない人は、つぎつぎに死んでゆく。
亡くなった仲間を埋める穴掘りがまた、大変な作業だったと聞く。分厚い凍土を掘り起こすのに食べるものすらない中、生き残った人たちで力を合わせて励ましあい、どうにかして内地にたどり着きたい。その一念で、極力バラバラにならないように、がんばった。しかし、病気や、その他の原因で何割かの人たちは、故郷の土を踏むことなく大陸の土となる。
私は国民学校の一年か二年生、薬草採り、カヤの穂を乾燥させて学校へ持っていく。何に使うか。これは戦地の兵隊さん(落下傘部隊)のためと聞かされた。学校のグランドまで耕してサツマイモを植えたのだ。子供たちの中には、ノミ、シラミ、が大繁殖。学校の教員(すべて代用教員)が、時々、カイニン草というのを、ナベで煮だして、子供たちに飲ませる。(回虫が糞に交じって出てくる)
婦人会では「竹槍訓練」というものもやっていた。
在郷軍人(軍務が明けた年配の男)が割烹着姿の婦人たちに(胸には名札を縫い付けて)「最後の独りまで戦う」と教える。
シベリアから、年を経て運よく帰ってきた人も少数だがいた。(現地で徹底した共産党の教育を仕込まれていた)
今日、終戦後71周年の記念式典を日本武道館で開催されるのを、テレビでみた。人は、こんなにも変わることができるものだということ。
政府の要人が靖国神社へ参拝すれば、必ず、中国などの国から、横やりが入る。戦争とは、どのような理屈をつけようが、相手国の人民を殺すものであって、それ以外の何物でもない。そして、このことは、太古の昔から、全く変わることはない。今後においてもだ。