アブソリュート・エゴ・レビュー

書籍、映画、音楽、その他もろもろの極私的レビュー。未見の人の参考になればいいなあ。

犬物語

2018-08-26 22:58:06 | 
『犬物語』 ジャック・ロンドン   ☆☆☆☆☆

 柴田元幸の訳によるジャック・ロンドン第二弾『犬物語』を読了。「ブラウン・ウルフ」「バタール」「あのスポット」「野生の呼び声」「火を熾す(1902年版)」の五篇が収録されている。最後の「火を熾す」は第一弾短篇集『火を熾す』表題作の初期バージョンであり、柴田元幸によれば、まあまあいい短篇であるこのバージョンに犬を登場させることで後のバージョンは米文学屈指の傑作となったそうである。読み比べてみると興味深い。

 さて、タイトルそのまんまに、犬が出てくる物語ばかりだ。最後の「火を熾す」だけ犬が出て来ないが、先述の通りこれは犬が欠けたバージョンの「火を熾す」だとと思えば逆説的に(つまりその不在によって)「犬」を語っているとも言える。構成的には最初の三篇がこじんまりした小品やユーモラスなほら話で、いわば前菜。圧倒的に長大な「野生の呼び声」がオードブルで、最後の「火を熾す」はデザートというところだろうか。他の作品はどうあれ、大傑作「野生の呼び声」だけでもう本書は五つ星確定である。

 「野生の呼び声」の主人公は、裕福な家族に飼われていたセント・バーナードと牧羊犬の雑種であるバック。快適な飼い犬生活を送っていたバックはある日使用人に売り飛ばされ、橇犬として苛酷な労働を強制されることになる。主人となった人間たちに鞭で叩かれ、虐待され、一緒に仕事をする橇犬たちとは弱肉強食の闘いを繰り広げる日々。そんな中でバックはたくましく、したたかになり、狼の血をひく種族としての誇りと歓びを取り戻していく。飼い犬だった彼が、野生に戻っていく。これはそういう物語である。

 飼われていた時のバックは何不自由ない暮らしを満喫し、まるでゆりかごの中の赤ん坊のようだった。もちろん、その天国のような生活は幸せだったはずだ。そのバックが、苛酷な外の世界に放り出されてからは命がけで戦うことを覚え、誇りをもって仕事をこなすことを覚え、他の犬たちを力で支配することを覚え、そして非情に殺すことを覚える。どんな甘えも許されない、苛烈きわまる世界だ。そこでは優しさやフェアプレイは命取りとなる。

 そんな世界で生き抜いていくバックは飢えから、寒さから、あるいは愚かな主人の無知から何度も死にかける。これを幸せな生活とは誰も呼ばないだろう。が、バックはその中にやがて強烈な歓びを見出すようになっていく。力の限り命を燃やす瞬間が、彼の野生の血を呼び覚ますのである。ぬるま湯のような飼い犬の人生に背を向け、生と死が紙一重の苛酷な野生の世界に向かって疾走していくバックの姿は、私たちに不思議な感動を与えずにはおかない。

 バックと彼の主人となる人間たちの関係も、見事なまでにドラマティックに描出される。氷の世界で生きる人間たちも橇犬と同じく、死と紙一重の世界で生きていて、自然を畏れ、橇犬たちを同志としてリスペクトしている。そんな中に甘えた「文明人」がやってくると、悲劇が起きる。一時期バックの主人となったハルとチャールズの中に、私たちはおそらく現実を見ない政治家、現場を知らない経営者、保身しか考えない役人など、さまざまな愚かしい権力者たちのカリカチュアを見る。こんな主人に買われた橇犬はまったく悲惨そのものだ。動かせるはずのない橇を無理やり引かせる、悪天候をみくびって犬たちを危険にさらす。最後に彼らは自らの愚かしさゆえに滅ぶのだが、その場面は異様な戦慄に満ちている。

 それからまた、バックと新しい主人ソーントンとの愛情の絆。賭けをしたソーントンのためにバックが重い橇を引く場面のスリル、そしてその結末がもたらす圧倒的な感動はどうだろう。本を読みながらほとんど泣きそうになりましたよ、私は。おまけに名場面は他にもいっぱいあって、バックと他の犬との決闘場面、バックが野生の狼として生まれ変わる場面、絶望的な状況で必死に働く橇犬たちの場面など、枚挙にいとまがない。著者によれば橇犬は自分の仕事に誇りを持っていて、そのため死につつあるにもかかわらず自分のポジションを他に譲ろうとしないという。

 単なる犬の物語が私たちの胸の中にこれほどの共感の呼ぶのは、誇りと覚悟をもって野生に戻っていくバックの高貴さに打たれるからだ。その高貴さは人間も犬も関係なく、また生ぬるいヒューマニズムとも無縁である。なぜならばそれは、殺し合いも辞さない苛烈な世界の中で育まれるものだからだ。そういう意味で、この「野生の呼び声」は真の意味でのハードボイルド小説と言っていいと思う。そしてこの中篇を読み終えた時、読者はバックとともに長い旅を終えた気分になるだろう。そんな小説が名作でないわけがない。

 さて、他の短篇にも少し触れておくと、「ブラウン・ウルフ」は「野生の呼び声」の物足りない予告編みたいな短篇だが、「バタール」は犬と人間の壮絶な憎しみあいを描いたまるでウラ「野生の呼び声」といった趣きで、なかなか読み応えがある。「あのスポット」はちょっと趣向が変わり、超自然的に悪辣な犬をめぐるホラ話である。オチが洒落ている。

 そして最後の「火を熾す」初期バージョンは、一人の怖い者知らずの男が極寒の中、火を熾せないために死にかける話である。犬は登場しない。確かに後のバージョンほどの完成度はないかも知れないが、私はこのバージョンもかなり好きである。人間の驕りをあっさりと叩き潰す自然の怖さを、ひしひしと感じることができる。

 柴田元幸の翻訳はシャープかつ的確で、ジャック・ロンドンの劇的な物語の輪郭をくっきりと際立たせている。この短篇集は私に、まるで子供の頃のように、物語を読むことの悦びをあらためて思い出させてくれた。



最新の画像もっと見る

コメントを投稿