アブソリュート・エゴ・レビュー

書籍、映画、音楽、その他もろもろの極私的レビュー。未見の人の参考になればいいなあ。

世界怪奇実話(その2)

2017-06-02 23:06:49 | 
(前回からの続き。写真はマタ・ハリ)

 さて、それからシリアル・キラー系の話が三つある。「都会の類人猿」「浴槽の花嫁」「街を陰る死翼」の三つで、読み終わって思い返すと似た話なので頭の中でごっちゃになってしまいそうだが、やはりそれぞれに特色がある。「都会の類人猿」は貸間を探しているふりをして下見に上がり込み、女主人をレイプして殺す連続殺人犯で、年配の女性を好むという変態性と、頻繁に服を着替えるという妙な性癖が特徴。やっぱり、どこかおかしい。「浴槽の花嫁」は基本的に金目当ての殺人で、結婚して浴槽で溺死させて遺産を懐に入れる、という手口を繰り返した連続殺人犯の話。この手口がうまくいったので繰り返したのだろうが、さすがに同じような事件が続けばおかしいと思われるに決まっている。が、当時はまだ情報システムが発達していなかったので、州を越えて引っ越してしまえばこんな事件を繰り返してもなかなか気づかれなかったらしい。しかし当然、一旦疑いを持たれればたちまちバレてしまう。

 もう一つの「街を陰る死翼」は、有名なドイツの通り魔殺人鬼ピーター・ケルテンの話である。これがもっとも典型的な通り魔殺人だろう。人気のない夜道を歩いている女性を襲って殺す。遺留品も目撃者もなく、何度殺人を繰り返してもまったく尻尾を掴ませず、ドイツ中を恐怖のどん底に叩き込んだシリアル・キラーだったが、いつまでもそううまくいくもんじゃない。

 それにしてもこの三つのルポを読むと、やはりこの犯人たちは、普通の人間とは異なる精神構造の持ち主たちだと思わないわけにはいかない。それをサイコパスと呼ぶのだろうが、次々と人を殺しても恬然としている。しかも、だんだん破滅に向かっていることは目に見えているというのに、平然とまた殺人を犯す。警察が自分の身辺に迫っている状況で自分の首に縄をかけるも同然の行為をやってしまうのだ。一体どういうことなのだろう。それに、「都会の類人猿」の殺人鬼アール・ネルスンはしょっちゅう着替えをするという奇癖に加えて、聖書をほとんど全部暗記していたという。それなのに、平気で人をレイプして殺してしまう。良心の呵責というものはないのだろうか。

 最近どこかの記事で読んだが、サイコパス的要素というのは社会的に成功している人間にも多く見られる特徴だという。つまり、社会的に高い地位につくにはサイコパス的性格の方が有利であり、それはたとえば他人の心情を斟酌せずに平気で冷酷な処置ができるとか、交渉の席でタフに振舞えるとかいったことを意味する。また、別の時に『コーポレーション』というノンフィクションDVDを観たが、企業の行動を人間として診断するとほとんど全部サイコパスになるというくだりがあった。まあどこまで本当か分からないが、特にアメリカ社会で成功して金持ちになった連中、たとえば先日の記事に書いたエンロン社経営陣や、『インサイド・ジョブ』に出てくるリーマンショックを引き起こした連中などを見ると、間違いなくサイコパス的言動があると思う。

 さて、本書の中でもっともユーモラスな一篇は、進化論裁判を扱った「白日の幽霊」である。進化論裁判とは何かというと、人間がサルから進化したなどという進化論は聖書の教えに反するので学校で教えるべからず、違反した教師は罰する、という法律がアメリカ合衆国で定められ、それに伴って巻き起こった裁判のルポである。冗談かと思うだろうが、1925年にテネシー州で実際に起きた事件だという。びっくりしてしまう。が、アホな法律はすぐにやめろという話にならず、大勢の著名人たちを巻き込んで白熱した裁判になったというから更に驚く。聖書というものがアメリカ社会でどれだけ根強い力を持っているか、日本人には測りがたいところがある。この一篇だけは著者も揶揄する調子が強く、かなり笑える一篇となっている。

 女スパイを扱った戦争もの二篇のうち、「戦雲を駆る女怪」ではマタ・ハリを扱っている。ちなみに、もう一篇で扱われているアリス・ドュボアの名前を私は寡聞にして知らなかった。さて、マタ・ハリも先述したウンベルト侯爵夫人やカラブウ殿下と同じく素性は真っ赤な嘘で固められていたが、それを私利私欲の詐欺に使ったのではなく戦時の女スパイとして生き、最後は国の使命に殉じてその命を散らしたところが違う。ダンサーにして蠱惑的な東洋の美女という触れ込みで西側諸国の社交界を席巻したが、実はダンサーとしては場末の踊り子レベルだったという。が、その天性の男性誘惑術で次々と要人と関係を持ち、雇い主であるドイツ軍に西側の情報をもたらした。やがて二重スパイ容疑で逮捕され、最後はフランスで銃殺刑に処せられた。

 マタ・ハリの生涯には謎が多く、残された数々のエピソードも真偽が怪しいものばかりだというが、本書では有力者である愛人の正体を隠して死んでいったこと、また死に際しては銃殺を逃れられると信じていたため泰然としていたこと、などが書かれている。有力者である愛人の件というのは、その人物からのラブレターを保身のための最後の武器として大事に取っていた(つまり、いざとなれば彼を脅して自分の身を守らせる)にもかかわらず、逮捕される直前に何を思ったかその手紙を焼き、その後の尋問でも決して彼の名を白状しなかったというものだ。が、そんなマタ・ハリ、有力な男たちから美貌を賛美され歴史に名を残した華麗な女スパイも、処刑後に遺骸の引き取り手は一人もなかったという。その哀れな最期がなんとも泣かせる。

 それにしてもこんな記録を読むと、人の一生とはどれほど数奇なものかとつくづく思う。マタ・ハリだって平和な時代に生まれれば、男を手玉にとる小悪魔的なプレイガールぐらいで済んでいたかも知れない。それともやはり、世間を騒がせる大スターにでもなっていただろうか。波風のない、穏やかで平凡な人生を送る人間と、数奇でドラマティックな人生を生きる人間とは何が違うのだろう。単なる偶然だろうか、それともその人間の性質あるいは生まれた星が引き寄せる必然なのだろうか。この一篇を読むと、そんなことを考えさせられる。

 長くなってしまったが、そんなこんなでこの牧逸馬の『世界怪奇実話』、相当に読み応えがある。記載事実の正確性には多少眉につばをつけた方がいいかも知れないが、興味本位の面白い読み物としてゆったり楽しむ分には問題ないし、世界はまだまだ広いということを実感できる。ちなみに牧逸馬の「世界怪奇実話」には島田荘司・編集のものもあり、どうやら収録されているエピソードは私が持っている本と異なっている。ぜひ読んでみたいと前から思っているのだが、現在では入手不能らしい。実に残念である。



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