さて、物語の内容である。前回書いたように未来場面は無視する。
タイトル通りエジプトの女王、クレオパトラの物語である。Webで検索すると大体「お遊び満載の楽しい作品」とまるでギャグ・アニメのような紹介のされ方をしていてがっくりくるが、私はこれを手塚治虫の人間ドラマと幻想性、そしてエロティシズムとエキゾチズムが融合したアニメラマ三部作の最高傑作と思っている。確かにギャグも多くておふざけ満載だが、それは単なる装飾で、物語の骨子はクレオパトラという、普通の女として愛に生きることすら許されなかった哀れな女王の悲劇である。
それからこのギャグについてだが、確かに本作には忍者やバカボンのパパやサザエさんがいきなり出てくる。手塚治虫のマンガにヒョウタンツギが出てくるのと同じような調子だ。はっきり言ってくだらなくて笑えない。が、それでいいのである。このナンセンスなギャグが突然挿入されることで、物語から重さとセンチメンタリズムが払拭され、すべてがキッチュな冗談の色合いを帯びる。そしてクレオパトラが不細工だとか、整形して美人になるといった荒唐無稽さが不自然ではない世界が準備される。制作者がどう思っていたかは知らないが、私はこれがボリス・ヴィアンの悪ふざけと同じような、パタフィジックな効果をこの作品にもたらしていると思う。
さて、私がこう書いたところで「じゃひとつ観てみようか」といってこの作品を観てくれる人は少ないと思われるので、名場面を多少詳しく描写しながらストーリーを紹介したいと思う。クレオパトラがシーザーやアントニウスと関係があったこと、最後は蛇に噛まれて死んだことなどは(真偽は別にして)有名な話なので、そういう意味でネタバレも何もないだろう。といっても、もちろんこのアニメは史実に忠実ではないので、念のため。
物語はローマのシーザーがアレクサンドリアにやってくるところから始まる。富田勲の重厚な音楽とともに人々が虐殺される映像が挿入される。エロだけでなくこの残酷性も本作の特徴である(エロティシズムとエキゾチズムと残酷性、これはやっぱりシュルレアリスムである)。さてシーザーに抵抗するゲリラ組織の中にクレオパトラと乳母アポロドリアの姿があった。シーザーに女の武器で抵抗するというクレオパトラを男達は笑う。「しかし見ろよ、あの顔」アポロドリアが一喝する。「無礼な!クレオパトラ様は世界一の美女。今夜生まれ変わられるのです」
クレオパトラは神殿に住む魔術師のところへ行き、整形術で絶世の美女に生まれ変わる。アポロドリアは言う。「お美しい!世界に美のきわみがあるとすればクレオパトラ様、それはあなたです」「でも、つくり花ですわ」「ホホホホ、自然の花は枯れるもの。つくり花は枯れません」
この整形の場面、魔術師がクレオパトラの体をぐにゃぐにゃにして鼻歌を歌いながらあっという間に改造するのだが、それまでのコミカルな描写から、クレオパトラの新しい顔が現れるとともに富田勲の幻想的な音楽がフェード・インしてきてムードが一変する。私はこの場面を見るといつも軽い戦慄を覚えるのだが、富田勲の音楽は本作において非常に重要な役割を果たしている。それから川を下る場面では、さっそくアポロドリアがクレオパトラにレスビアン的感情を抱いているのが示唆される。すでに妖しさ全開である。
さて、美女となったクレオパトラをちっぽけな袋に詰めてアポロドリアはシーザーの駐留地へ向かう。この袋がまたちっぽけで絶対に人間など入らないサイズなのだが、このアニメにおいては入ってしまうのである。シーザーは暗殺計画を察知していて、袋にワニが入っていると思って刺殺しようとする。が、香水のにおいに気づく。「まさか、こんな小さな中に…」袋の紐をほどくと、中から全裸のクレオパトラが現れる(まるで袋から脚が生え、腰が生え、女が生えるような不思議な映像だ)。シーザーはその美しさに打ちのめされる。
ここでベッドシーンとなるが、極端にデフォルメされた線画によって描かれる抽象的なベッドシーンである。これが不思議とエロティックだ。本作にはこういうアニメーションならではの遊びがふんだんにあって、後のアントニウスとのベッドシーンでは「画面の走査線が乱れる」という遊びが出てくる。ベッドシーンだけでなく、たとえばシーザーがローマで凱旋パレードをする場面ではピカソ、ミロ、ルソー、ドガ、モジリアーニなど古今東西の名画をアニメーションにして動かす趣向が見られるし、シーザーが死ぬ場面はいきなり歌舞伎(!)になる。
さて、シーザーを殺さなければならないクレオパトラは、にもかかわらず彼を愛してしまう。「あの人、私を愛しているんだわ…」そして子供までできてしまう。アポロドリアは赤ん坊の顔を見に来たシーザーを殺すよう指示するが、クレオパトラは殺せない。シーザーはクレオパトラをローマの凱旋帰国に連れて行く。そこでクレオパトラはシーザーが愛しているのはローマの妻であって自分ではないと知り、ブルータスを買収してシーザーを殺す。クレオパトラは空ろな胸を抱えてエジプトに帰る。
しかしローマからは次々とエジプト侵略の兵がやってくる。ゲリラの一員であるクレオパトラはそのたびに侵略者を誘惑し、深い関係を結びながらやがて殺さなければならない。これが本作を貫く悲劇的なテーマである。シーザーの次はアントニウスがやってくる。クレオパトラはアントニウスを誘惑し、愛し、そして策略で死地に追い込む。このアントニウスの死の場面は異様に感動的である。
アントニウスは戦の前夜クレオパトラの裏切りを知り、クレオパトラを殺すと言ってオクタヴィアヌスとの海戦に向かうが、クレオパトラに薬物中毒にされていたせいでぼろぼろに負ける。クレオパトラは宮殿でその知らせを聞く。「恨んだでしょうね、あの人…あんなに私を信じていたのだから」その時侍女が叫ぶ。「アントニウス様が! 剣を持っておいでです!」
アントニウスが宮殿に入ってくる。ぼろぼろになった体で剣を持ち、クレオパトラはどこだと叫んでいる。皆は女王に逃げるように言う。が、クレオパトラはアントニウスに呼びかける。「アントニウス、私はここよ」彼女はくず折れるアントニウスを抱きかかえる。アントニウスはクレオパトラの裏切りにはまったく触れず、愛の言葉を囁き、口づけを交わして死んでいく。クレオパトラはその体にすがって泣く。
アントニウスを殺したのはクレオパトラだと言っていいし、アントニウスもそのことを知っている。しかし二人はそれでもなお愛し合っている。まるでつかこうへいの世界だ。
さて、次はオクタヴィアヌスがやってくる。自分の運命に嫌気がさしたクレオパトラは二人の従者をつれて砂漠へと逃亡し、捕まり、命乞いをするが、男色者であるオクタヴィアンはクレオパトラの誘惑をはねつける。自分の運命を知ったクレオパトラは、自ら蛇に噛まれ、ピラミッドの中で息絶える。ラストシーンはピラミッドの頂上に出た(クレオパトラの従者の)リビアが、眼下の砂漠を覆うローマ軍に向かって、「ローマの兵隊ども、エジプトから出て行けー!」と繰り返し叫ぶところで終わる。砂漠にこだまする、血を吐くような叫び。見事なラストである。(前回書いたようにこれは短縮版のラストで、オリジナル版ではこのあとに未来の場面が続く)
映像的には色彩が非常に鮮やかだ。過剰に派手な色使いで、それがまた独特のキッチュな感覚をもたらしている。シーザーの肌なんて緑色である。オクタヴィアヌスは青だし。シーザーとクレオパトラが浴場で愛を交わす場面があるが、靄にけむる中に緑のシーザーと赤いクレオパトラの裸身が浮かび上がって素晴らしく幻想的だ。もちろんBGMは富田勲。「砂漠よ~♪」という印象的な歌は由紀さおりらしい。最近まで知らなかった。
というわけで、アニメラマ三部作の第二作『クレオパトラ』のご紹介でした。私はいまだかつてこれと同じような衝撃(エロティシズム、エキゾチズム、幻想性、キッチュさ、そして重厚な悲劇性のミックス)を与えてくれるアニメを観たことがない。同じようなジャンルすらない。空前絶後である。今でもこのアニメを観ると、妖しい夢を見ているような不思議な心もちになる。こういう感慨をこの古いアニメ作品に対して持っているのは私だけだろうか。
タイトル通りエジプトの女王、クレオパトラの物語である。Webで検索すると大体「お遊び満載の楽しい作品」とまるでギャグ・アニメのような紹介のされ方をしていてがっくりくるが、私はこれを手塚治虫の人間ドラマと幻想性、そしてエロティシズムとエキゾチズムが融合したアニメラマ三部作の最高傑作と思っている。確かにギャグも多くておふざけ満載だが、それは単なる装飾で、物語の骨子はクレオパトラという、普通の女として愛に生きることすら許されなかった哀れな女王の悲劇である。
それからこのギャグについてだが、確かに本作には忍者やバカボンのパパやサザエさんがいきなり出てくる。手塚治虫のマンガにヒョウタンツギが出てくるのと同じような調子だ。はっきり言ってくだらなくて笑えない。が、それでいいのである。このナンセンスなギャグが突然挿入されることで、物語から重さとセンチメンタリズムが払拭され、すべてがキッチュな冗談の色合いを帯びる。そしてクレオパトラが不細工だとか、整形して美人になるといった荒唐無稽さが不自然ではない世界が準備される。制作者がどう思っていたかは知らないが、私はこれがボリス・ヴィアンの悪ふざけと同じような、パタフィジックな効果をこの作品にもたらしていると思う。
さて、私がこう書いたところで「じゃひとつ観てみようか」といってこの作品を観てくれる人は少ないと思われるので、名場面を多少詳しく描写しながらストーリーを紹介したいと思う。クレオパトラがシーザーやアントニウスと関係があったこと、最後は蛇に噛まれて死んだことなどは(真偽は別にして)有名な話なので、そういう意味でネタバレも何もないだろう。といっても、もちろんこのアニメは史実に忠実ではないので、念のため。
物語はローマのシーザーがアレクサンドリアにやってくるところから始まる。富田勲の重厚な音楽とともに人々が虐殺される映像が挿入される。エロだけでなくこの残酷性も本作の特徴である(エロティシズムとエキゾチズムと残酷性、これはやっぱりシュルレアリスムである)。さてシーザーに抵抗するゲリラ組織の中にクレオパトラと乳母アポロドリアの姿があった。シーザーに女の武器で抵抗するというクレオパトラを男達は笑う。「しかし見ろよ、あの顔」アポロドリアが一喝する。「無礼な!クレオパトラ様は世界一の美女。今夜生まれ変わられるのです」
クレオパトラは神殿に住む魔術師のところへ行き、整形術で絶世の美女に生まれ変わる。アポロドリアは言う。「お美しい!世界に美のきわみがあるとすればクレオパトラ様、それはあなたです」「でも、つくり花ですわ」「ホホホホ、自然の花は枯れるもの。つくり花は枯れません」
この整形の場面、魔術師がクレオパトラの体をぐにゃぐにゃにして鼻歌を歌いながらあっという間に改造するのだが、それまでのコミカルな描写から、クレオパトラの新しい顔が現れるとともに富田勲の幻想的な音楽がフェード・インしてきてムードが一変する。私はこの場面を見るといつも軽い戦慄を覚えるのだが、富田勲の音楽は本作において非常に重要な役割を果たしている。それから川を下る場面では、さっそくアポロドリアがクレオパトラにレスビアン的感情を抱いているのが示唆される。すでに妖しさ全開である。
さて、美女となったクレオパトラをちっぽけな袋に詰めてアポロドリアはシーザーの駐留地へ向かう。この袋がまたちっぽけで絶対に人間など入らないサイズなのだが、このアニメにおいては入ってしまうのである。シーザーは暗殺計画を察知していて、袋にワニが入っていると思って刺殺しようとする。が、香水のにおいに気づく。「まさか、こんな小さな中に…」袋の紐をほどくと、中から全裸のクレオパトラが現れる(まるで袋から脚が生え、腰が生え、女が生えるような不思議な映像だ)。シーザーはその美しさに打ちのめされる。
ここでベッドシーンとなるが、極端にデフォルメされた線画によって描かれる抽象的なベッドシーンである。これが不思議とエロティックだ。本作にはこういうアニメーションならではの遊びがふんだんにあって、後のアントニウスとのベッドシーンでは「画面の走査線が乱れる」という遊びが出てくる。ベッドシーンだけでなく、たとえばシーザーがローマで凱旋パレードをする場面ではピカソ、ミロ、ルソー、ドガ、モジリアーニなど古今東西の名画をアニメーションにして動かす趣向が見られるし、シーザーが死ぬ場面はいきなり歌舞伎(!)になる。
さて、シーザーを殺さなければならないクレオパトラは、にもかかわらず彼を愛してしまう。「あの人、私を愛しているんだわ…」そして子供までできてしまう。アポロドリアは赤ん坊の顔を見に来たシーザーを殺すよう指示するが、クレオパトラは殺せない。シーザーはクレオパトラをローマの凱旋帰国に連れて行く。そこでクレオパトラはシーザーが愛しているのはローマの妻であって自分ではないと知り、ブルータスを買収してシーザーを殺す。クレオパトラは空ろな胸を抱えてエジプトに帰る。
しかしローマからは次々とエジプト侵略の兵がやってくる。ゲリラの一員であるクレオパトラはそのたびに侵略者を誘惑し、深い関係を結びながらやがて殺さなければならない。これが本作を貫く悲劇的なテーマである。シーザーの次はアントニウスがやってくる。クレオパトラはアントニウスを誘惑し、愛し、そして策略で死地に追い込む。このアントニウスの死の場面は異様に感動的である。
アントニウスは戦の前夜クレオパトラの裏切りを知り、クレオパトラを殺すと言ってオクタヴィアヌスとの海戦に向かうが、クレオパトラに薬物中毒にされていたせいでぼろぼろに負ける。クレオパトラは宮殿でその知らせを聞く。「恨んだでしょうね、あの人…あんなに私を信じていたのだから」その時侍女が叫ぶ。「アントニウス様が! 剣を持っておいでです!」
アントニウスが宮殿に入ってくる。ぼろぼろになった体で剣を持ち、クレオパトラはどこだと叫んでいる。皆は女王に逃げるように言う。が、クレオパトラはアントニウスに呼びかける。「アントニウス、私はここよ」彼女はくず折れるアントニウスを抱きかかえる。アントニウスはクレオパトラの裏切りにはまったく触れず、愛の言葉を囁き、口づけを交わして死んでいく。クレオパトラはその体にすがって泣く。
アントニウスを殺したのはクレオパトラだと言っていいし、アントニウスもそのことを知っている。しかし二人はそれでもなお愛し合っている。まるでつかこうへいの世界だ。
さて、次はオクタヴィアヌスがやってくる。自分の運命に嫌気がさしたクレオパトラは二人の従者をつれて砂漠へと逃亡し、捕まり、命乞いをするが、男色者であるオクタヴィアンはクレオパトラの誘惑をはねつける。自分の運命を知ったクレオパトラは、自ら蛇に噛まれ、ピラミッドの中で息絶える。ラストシーンはピラミッドの頂上に出た(クレオパトラの従者の)リビアが、眼下の砂漠を覆うローマ軍に向かって、「ローマの兵隊ども、エジプトから出て行けー!」と繰り返し叫ぶところで終わる。砂漠にこだまする、血を吐くような叫び。見事なラストである。(前回書いたようにこれは短縮版のラストで、オリジナル版ではこのあとに未来の場面が続く)
映像的には色彩が非常に鮮やかだ。過剰に派手な色使いで、それがまた独特のキッチュな感覚をもたらしている。シーザーの肌なんて緑色である。オクタヴィアヌスは青だし。シーザーとクレオパトラが浴場で愛を交わす場面があるが、靄にけむる中に緑のシーザーと赤いクレオパトラの裸身が浮かび上がって素晴らしく幻想的だ。もちろんBGMは富田勲。「砂漠よ~♪」という印象的な歌は由紀さおりらしい。最近まで知らなかった。
というわけで、アニメラマ三部作の第二作『クレオパトラ』のご紹介でした。私はいまだかつてこれと同じような衝撃(エロティシズム、エキゾチズム、幻想性、キッチュさ、そして重厚な悲劇性のミックス)を与えてくれるアニメを観たことがない。同じようなジャンルすらない。空前絶後である。今でもこのアニメを観ると、妖しい夢を見ているような不思議な心もちになる。こういう感慨をこの古いアニメ作品に対して持っているのは私だけだろうか。
実際に見てみるまで、同じ感想を抱くか分りませんが、この映画レビューが面白かったので、それだけでもよかったと思ってます。
今日、映画は手に入るので、初見は未来部分は端折って見るつもりです。
アポロドリアで検索していたら
このブログにたどりつきました。
たしかに凄いアニメですよね・・・
自分は女性ですが、男性の方目線の
感想が読めて大変興味深く思いました。
私はアントニウスがクレオパトラに
「もう一度その声が聞きたかった・・・」
ととオクタヴィアヌスの戦いに敗れ帰ってきたシーンが
泣けました。
*******************
「あの酒・・なんつったか・・」
「口移し?」
「そう、そのうつし・・それがもいちど飲みたくて・・戻ってきたのオレ、の・ま・へて」
<キスするクレオパトラ>
「どうも、ごちそう、さま。おいし、かったわん」
<アントニウス絶命>
*********************
という感じでした。
今まで何度も映像化され、その都度いろいろな解釈
クレオパトラは計算高い悪女?いや愛に生きた悲恋の人 塩野さんの本なんか読むと両方あって、、、そこの矛盾がクレオパトラの魅力なのでしょう
アニメの方でも悪女の部分をアポロドリアに分担させて、うまい具合に表現してたと思います。
HBOドラマ「ROME」のアントニーとクレオパトラなんか完全なバカップル、、、アニメよりも身も蓋もなく描かれています
クレオパトラは売女キャラ、アントニーは女好きの脳みそ筋肉男(もっとも、アントニーの場合は史実だそうでキケロの書簡にそのように書いてあったとか)
それでも、やはり泣けました。 その余韻があって幻の名作(私の中では)、手塚クレオパトラを動画で見ました。
思えば40年以上塩漬けにしてたのを見終えました。
子供の頃から、その作画のエロさにそそられながらもリアルタイムでは見損ない、由紀さおりさんの名曲だけでイメージを膨らましていた作品です。
内容はアントニアなんか完全な田舎っぺ大将だし おふざけ度も予想以上でしたが・・・・でも泣けました。
ま、、、万博開催時の黄金期の日本の雰囲気、あの当時の豊穣な文化も詰め込まれての感動もありましたが。
中山千夏さんの声も良かったし、アッと驚く為五郎にも泣けたし(笑)
アントニーとクレオパトラ・・・・これにまさるコンテンツはないでしょうね。