アブソリュート・エゴ・レビュー

書籍、映画、音楽、その他もろもろの極私的レビュー。未見の人の参考になればいいなあ。

世界怪奇実話(その1)

2017-05-30 23:10:02 | 
『世界怪奇実話』 牧逸馬   ☆☆☆☆☆

 牧逸馬とは長谷川海太郎のペンネームの一つで、この人は他に林不忘、谷譲次というペンネームも持っていた。林不忘は名高い「丹下左膳」シリーズの作家であり、活躍した時代は1920年代から30年代と古い。

 そういうわけで、本書も文体やボキャブラリーはかなり古めかしいが、内容は文句なく面白い。タイトル通り世界中の毛色の変わった事件や歴史的事実を取り上げて読み物風にまとめたもので、全部で10篇の「怪奇実話」が収録されている。怪奇と銘打ってあるが別に怪談やオカルト系の話ではない。題材としては有名な連続殺人事件が三篇、女スパイを扱った戦争ものが二篇、詐欺事件が三篇、裁判の記録が一篇、海難事故が一篇である。ただし怪奇実話というだけあって、信じられないような奇想天外な話が多い。

 印象に残った話からランダムに紹介すると、まずは「ウンベルト夫人の財産」。これはまったく信じがたい詐欺事件で、パリの社交界全体を二十年にわたって騙し続け、本当は無一文のくせに王侯並みの豪奢な生活を送ったという希代の女詐欺師、ウンベルト夫人の物語である。彼女はアメリカ人富豪の莫大な遺産を相続したが遺族に訴訟を起こされたので今は金に手をつけられない、というたったこれだけの嘘で、パリの名士、実業家、銀行などから金を借りまくり、そして他人の金でパーティー三昧の豪奢な生活を続けたという。しかも二十年間。あり得るか、そんなことが。

 面白いのは彼女は美人でも知的でもなく、無教養丸出しの田舎女だったという点だ。むしろそういうところがパリの名士たちを信用させたのだろうが、それにしても莫大な遺産なんて、そんな嘘くさい話がそうそう通用するもんじゃない。この女は最高級マンションの中にどでかい金庫を据えて訪問者に見せ、ありとあらゆる証文を偽造して揃えていたという。パリへ出てくる前結婚した時も相手に嘘をついていたというから、多分息を吐くように嘘が出てくる類の女だったのだろう。虚言の天才だったことには間違いない。しかし一番感心するのはその鉄の神経で、普通、人を騙して借金で暮らしていたらいつバレるとかとヒヤヒヤもので、並みの人間なら一年ももたないだろう。それを二十年間、しかも有名人を大勢招待してパーティー三昧という贅沢きわまる生活を続けたのだから、その肝の太さは驚異的である。
 
 本書の中ではやはり詐欺物が一番奇想天外性が強いが、「カラブウ内親王殿下」も、とても実話とは思えない摩訶不思議な話だ。これは一人の娘がイギリス中を騙した話だが、この娘は、難破船から命からがら逃げだしてきた東洋の謎のプリンセス、になりすました。すごいのは日常の習慣から食べ物、言葉まですべて架空のものを考え出し、それを24時間押し通したことである。誰も理解できない言語を喋り続け、会話はすべて身振り手振りで行われた。通訳や言語学者がやってきて解読しようとしても歯が立たない。これが全部、嘘なのである。すごい演技力だ。台本もなしに即興で演技を続け、田舎の人々だけでなく学者や記者まで騙し通した。

 更にこの話で面白いのは、この娘のデタラメ言語を「通訳」してみせたポルトガル人の男である。船乗りか何かの経験でマイナーな言語を知っているという触れ込みで連れて来られ、カラブウ殿下と二言三言会話してにっこり笑い、「これじゃ分かる人がいなかったのも無理はない、あちこちの方言が混じってるんですよ」とやったのである。そしてカラブウ殿下としばらく談笑し、彼女の身の上話を全部「通訳」して聞かせた。もともと仲間だったわけじゃなさそうなので、二人とも即興演技だったことになる。いやもう、到底あり得ない。この二人、一体どういう精神構造をしているのか。カラブウ殿下のインチキがバレてイギリス中が驚愕した時、この男の姿はもうどこにもなかったという。

 それにしてもこのカラブウ殿下を演じた英国の田舎娘にしろウンベルト夫人にしろ、鉄の神経と天才的演技力を併せ持った傑物という以外に言葉がない。

 海難事故を扱った一篇「運命のSOS」は、あのタイタニック号の悲劇を扱ったものである。タイタニックの名前は誰もが知っているが、背景と経緯を良く知っている人は意外と少ないのではないだろうか。私もこれを読むまで「氷山にぶつかって沈んだ有名な豪華客船」ぐらいの知識しかなかったが、実はタイニック号の遭難は海難事故の歴史上最大級の運命の皮肉と驚くべき巡り合わせに満ちた、数奇な悲劇なのであった。たとえば、実は事故の時タイタニックのすぐそばに別の船がいて救助活動が可能だったにもかかわらず、無線技師が眠っていたためSOSを受信できなかったのだという。更に、タイタニックが断末魔の中で必死に打ち上げた救助信号を目撃した船員もいたらしいが、パーティーか何かだと思ってのんびり傍観していたという。何よりも乗っている乗客含めた誰もが、あの最新型の豪華客船タイタニック号が沈没するとは夢にも思っていなかったのだ。

 また、このルポルタージュによればタイタニックの悲劇はまったくの人災である。この世界最高級、絶対不沈と喧伝された豪華船には、最初から十分な数の救命ボートが積まれていなかった。絶対に沈まない船などないという単純な真実を皆が忘れ、タイタニックに救命ボートを積むというアイデアはむしろ冗談のように受け取られた。しかしながら、もしタイタニックに一事あった時には、最初から乗客の半分が海の藻屑と消える運命にあったのだ。

 さて、海の貴婦人と謳われた優雅極まりない、史上最高の豪華船がお祭り騒ぎとともに出航する。向かうはニューヨーク。乗客は自分の幸運と幸福に酔いしれ、船の安全には絶対的信頼を寄せている。最初にタイタニックが氷山にぶつかった時は鈍い衝撃が船全体に伝わったものの、全員が気づくほどのものでもなかった。従って、誰もこれを深刻な事故とは考えかなった。しかし氷山はたった一撃ですでにこの豪華客船に致命傷を与えていたのであり、損傷の報告を受けた時、ただ船長ひとりが事態の深刻さを悟った。すなわち、乗客と乗務員のうち半数はもはや死をまぬがれないということを。しかも、ただタイタニックが十分な数の救命ボートを積んでいなかったという、ただそれだけの理由で。

 船長は苦しい呻吟の末に、この事実を公表しない道を選ぶ。パニックを避けるためである。そしてすみやかに避難するよう乗客に呼びかける。最初、人々はタイタニックが危険な状態にあることが信じられず、救命ボートに乗ることを拒否する人もいたという。しかし、やがて人々は船が沈みつつあること、そして救命ボートの数がどう見ても足りないことに気づく。こうなった時、人間の隠されていた本性、真の姿が露呈する。本書の中にはタイタニックが沈む際のさまざまな人々の行動が詳述されているが、女子供を押しのけて我先に救命ボートに乗り込む金持ちの紳士もいれば、船が沈むまでSOSを叩き続けた無線技師、沈着冷静に乗客を助け続けた船員もいる。中には、もう終わりだと観念し、船にあった酒を手当たり次第に飲みまくって酔っ払い、意識を失い、目が覚めたら救助された船の中だったという大酒飲みの例なども紹介されている。

 人間、普段どんな風に周囲の人々から思われているにせよ、こういう瞬間に意外な素顔を見せるものなのだ。普段取り繕っているものが剝げ落ちて、掛け値なしの人間性が曝け出される。こんな時にこそ、見苦しくない行動ができる人間でありたいものだなあ。

(次回へ続く)



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2 コメント

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Unknown (吾亦紅)
2017-07-02 23:53:09
読んで見ました。この時代にすごい作家がいたものですね。軽妙な語り口、隣町の出来事のような生き生きした描写。長谷川 海太郎という人物の存在が怪奇事件です。
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怪奇 (ego_dance)
2017-07-08 10:25:13
読んでいただけて嬉しいです。これは珍品にして名品でしょう。内容がたまらなく面白い上に、多分もう現代では読めない文体であり、言い回しです。ネタも一つ一つが長篇にできそうな濃密さ。全三十三篇をまとめて出版して欲しいです。
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