アブソリュート・エゴ・レビュー

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夜想曲集: 音楽と夕暮れをめぐる五つの物語

2011-04-04 21:01:07 | 
『夜想曲集: 音楽と夕暮れをめぐる五つの物語』 カズオ・イシグロ   ☆☆☆☆☆

 カズオ・イシグロの短篇集を読了。面白い。正直、こんなに面白いとは思わなかった。イシグロの長編は前に『わたしを離さないで』を読んだことがあるだけで、その印象から比較的エンタメ寄りの抒情的な小説を書く人、というイメージがあった。だからそれほど深く興味を持たなかったのだが、『短篇コレクション II』収録の『日の暮れた村』を再読し(アンソロジー『紙の空から』で最初に読んだ)、そういえばこんな奇妙な短篇も書く人だったなあと思い、初の短篇集という本書を入手してみたのである。もう文庫が出てるし。

 そしたら予想をはるかに上回る面白さだった。読みやすく、ストーリーも面白く、しかしそれだけではない不思議な多義性に溢れ、深読みしようと思えばどこまでも深読みできる短篇作品たち。この人は小説家としてめったにいないほどの達人ではないだろうか。あとがきにチェーホフ風の云々とあるので、そういう人生の断面図的短編かと思ったらそうでもない。何かしら奇妙なところがある。とにかく一筋縄ではいかない。収録作品は以下の通り。

「老歌手」
「降っても晴れても」
「モールバンヒルズ」
「夜想曲」
「チェリスト」

 特徴としてはどれもはっきりしたプロットを持ちながら、(最初の「老歌手」を除いては)どれも決着がつかないもどかしさを残して終わるところである。結局どうなるんだろう、何だったんだろうという謎が残る。「老歌手」だけは比較的オーソドックスな展開で、往年の人気歌手とその妻の別れを描いた哀愁漂う一篇だが、愛し合っていながら別れるという行為が逆説的でやはり不思議な読後感がある。

 「降っても晴れても」は唖然とするような不気味なコメディで、危機的状況にあるらしい友人夫婦を訪れた男が悪戦苦闘する話。友人夫妻のトラブルだけでなく自分たちの友情すら疑わしくなってしまい、その中で悪夢的なドタバタ劇がエスカレートしていく。なんだこれは、と笑った後ひとまずリリカルな結末を迎えるが、この女は本当は語り手をどう思っているのか分からないという気持ち悪さが残る。それに夫婦の問題はどうなるのか。よく考えると何も解決していないのである。グチャグチャになった状況が一旦おさまったというだけ。あとのすべてはぽーんと読者に放り出されたまま終わってしまう。

 「モールバンヒルズ」もなかなデリケートな短篇で、夫婦のいさかいや溝がテーマになっているが、語り手のミュージシャンとしての野心や姉夫婦との関係、それに旅館を営む婆さんへの厭悪など不穏な要素があちこちにちりばめられている。

 「夜想曲」では「老歌手」のリンディが再登場するが、時系列的に昔の話なのだろうか。ドタバタ喜劇的だが、これは妙に爽やかだ。才能あるサックス奏者が元妻とマネージャーから整形すれば売れると言われ、いやいや整形してしばらく高級ホテルの一室に隔離される。隣室に有名なセレブのリンディがいて(やはり整形手術後の隔離)、チェスをしたり自分のCDを聴かせたりする仲になる。ある日酔っ払ったリンディがホテルの会場から「年間最優秀ジャズミュージシャン」のトロフィーを盗んできたので、バレないうちに二人でこっそり返そうとする…という話。語り手の「おれ」ことサックス奏者が、もともとリンディを大嫌いなのになんとなくつきあうことになるのがおかしいし、嫉妬や屈託を隠した二人のやりとりも面白い。なにより、まったく先が読めなくてページを繰る手が止まらなくなる。

 「チェリスト」は本書中一番奇妙かつ現実離れした話で、イサク・ディーネセンの形而上学的寓話みたいだ。若いチェリストと彼を教える女の話だが、語り手が若いチェリストではなく第三者に設定されていて、最後はチェリストの現状がぼかされているのがミソである。

 五篇読み終えたら興奮した。とにかくこの日系イギリス人は非常に成熟した、老練な書き手だということが分かった。『日の名残り』なんて地味なタイトルの小説を書いているもんだからきまじめなしみじみ系の作家かと思っていたら、実はストーリーテラーであり、多義性を自在に操る名手であり、ユーモラスでロマンティックでビターで抒情的で、奇妙で不安でもある小説の書き手なのだった。いまさらながらだが、これは他の作品も読まなければならない。


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