アブソリュート・エゴ・レビュー

書籍、映画、音楽、その他もろもろの極私的レビュー。未見の人の参考になればいいなあ。

HHhH

2014-01-12 22:19:51 | 
『HHhH』 ローラン・ビネ   ☆☆☆★

 チェコの新人作家のデビュー作を読了。ゴンクール賞最優秀新人賞をはじめ色んな賞を獲っている。Amazonの作品紹介やカスタマーレビューでも大変好評のようだし、また本屋でぱらぱらとめくった時にミラン・クンデラについて書かれた一節が目に入り、面白そうだと思って買った。

 題材はナチのユダヤ人虐殺で、ゲシュタポ長官ヒムラーの右腕にして「金髪の野獣」と呼ばれたラインハルト・ハイドリヒと、その暗殺計画に携わったチェコ人スロヴァキア人達についての物語である。フィクションではなく、基本的には調査と史料に基づいた事実を書くノンフィクションで、かつ、それを書いている作者の思考をそこに織り交ぜることで「歴史小説とは何か」ひいては「小説とは何か」という考察を繰り広げる、メタフィクション作品としての側面も持っている。

 この小説を書くにあたってビネがミラン・クンデラの影響を受けているのは明白で、作家の思考を物語に組み込む手法もそうだし、著者自らのクンデラへの言及もそれを裏付けている。本書の1ページ目でビネはこう書く。「ミラン・クンデラは『笑いと忘却の書』のなかで、登場人物に名前をつけなければならないことが少し恥ずかしいとほのめかしている。とはいえ、彼の小説作品にはトマーシュだとかタミナだとかテレーザだとか名づけられた登場人物があふれ、そんな恥の意識などほとんど感じさせないし、そこにははっきりと自覚された直感がある。リアルな効果を狙う子供っぽい配慮から、もしくは最善の場合、ごく単純に便宜上であっても、架空の人物に架空の名前をつけることほど俗っぽいことがあるだろうか? 僕の考えでは、クンデラはもっと遠くまで行けたはずだ。そもそも、架空の人物を登場させることほど俗っぽいことがあるだろうか?」

 ここで彼は本書の登場人物は架空でなく、実在の人間であったことを強調する。つまりこれはビネ自身が、クンデラより「もっと遠くへ行く」ことを試みた作品なのである。

 その後も折に触れ、ビネはここに書かれたことが自分が想像ではなく事実であること、事実以外のものは厳密に排除されていることを強調する。ある人物が載っていた車の色が黒だったか緑だったかにこだわってみせる。他の歴史小説を引き合いに出し、作者が細部に想像を交えていることを批判したりもする。そしてその理由を、歴史の真実を知ろうとする時に自分の想像をまじえるのは、自分に有利な証拠を捏造するようなものだから、と説明する。

 要するに、これは創作の否定である。ノンフィクションの書き方としては別に珍しい態度ではないのだろうが、そこに「本書を書いている自分」のエピソードがまざり込むことで小説作品となり、他の歴史小説に対する作者の批判が「小説とは?」という考察にもつながって、メタフィクショナルな面白さを含んだユニークな「小説」として評価されているように思える。

 しかし、私にはこれが作者や訳者がいうように、クンデラより「遠くへ行く」こととはどうも思えず、むしろ作者の考えはいささか浅いんではないかと考えてしまう。想像を交えず、事実しか書かないから真実とビネは言うけれども、たとえノンフィクションであっても事実の取捨選択、並べ方、エディットのやり方などによってそこには必ず作家の視点、考え、ひいては作家性が入り込んでくるものであって、客観的な事実だけということはありえない。以前、筒井康隆がこれを「皆虚構論」とか「汎虚構論」とかいう言葉でどこかに書いていたように思うが、つまりノンフィクションであってもルポであってもエッセーであっても、人が何か書けばそれはすなわち虚構であるという考え方だ。これは今では別に突拍子もない考え方でもなんでもなく、「小説」というもののごく基本的な概念といってもいいはずだが、ビネの考察からはこれがすっぽり抜け落ちている。

 更に言えば、「事実」と「真実」は同じものではない。ノンフィクションではない創作された小説とは、「事実」を扱う代わりに架空の人物や架空の出来事を描いて「真実」を描こうとする試みであり、事実の積み上げの中から真実を追究するノンフィクションとはアプローチが違う。もしビネが言うように「真実」を探るために作家は想像をまじえてはいけないのなら、あらゆる創作された文学作品に「真実」はないことになってしまう。「いや、おれが言っているのは歴史小説についてだけだ」とビネは言うかも知れないが、歴史小説だって小説であり、小説であるからには作者の想像力の介入が許されるはずだ。ビネの批判があてはまるのは、純然たるノンフィクションに対してだけである。

 また更に言えば、他人が書いた歴史小説を批判しながら、ビネ自身も自分の想像をまじえて書いている。ただ、そこには必ず「~と僕は思う」と書かれていて、それが「僕は他の作家と違って事実と想像を区別して書いてますよ」というエクスキューズになっている。が、結果的に自分の想像で描写を膨らませていることに違いはないのである。意地悪な言い方をすれば、ビネは結果的には通常の歴史小説と大差ない書き方をしていながら、「自分は厳密な事実しか書かない、だから他の作家とは違う」ということを売り物にしているように見える。正直言って、小ざかしい。自分以上に精密に調べた作家はいない、というアピールがあちこちに出てくるのも少々うざい。

 そういうわけで、私はビネの手法は「演出」「自己宣伝」としては効果的かも知れないが、小説の本質論としては表面的で、大した意味があるようには思えない。正直、ミラン・クンデラとは比較の対象にならない。大体、架空の人物を登場させることを子供っぽいというなら、小説を書くという行為がそもそも子供っぽいものではないだろうか。

 ただし、ローラン・ビネが大した筆力の持ち主であることは疑いようがない。文体は理知的で、平静で、的確だ。とても新人作家とは思えない。自分を登場人物に置き換えてみたり、自分の思いや考えをストーリーの中にもぐりこませるところなど、クンデラの手法の応用とはいえ堂に入っている。色々批判するようなことを書いたが、実力と才能がある作家であることは間違いないと思う。

 内容についてほとんど触れずに来てしまったが、大雑把にいうと、前半はナチの所業のあれこれについて書き、後半はハイドリヒ暗殺計画の顛末をスリリングに描いている。ナチのユダヤ人に対する所業については今更言うまでもないが、こうしてあらためて細々と読んでみると、もはや昆虫的とでも形容するしかない酷さだ。人間がどこまで他者の痛みや生命に無関心になれるかの気が滅入る証拠、それがナチスである。ナチの史実がある限り、人間とは生まれながらに他者への愛情を持ち合わせているものですよ、と主張するのは困難だろう。アグレイブ刑務所の事件や監獄実験、アイヒマン実験など考え合わせるともう、ほとんど絶望的だ。ナチ的所業はナチ独特のものでなく、人間誰しも潜在的に持っている性質なのだと考えるしかない。

 つまり人間とは本来、他者の痛みに無関心な生き物なのである。ナチ関係の本を読むといつもそう思う。逆に言えば、他者への愛とは不自然なものであり、努力しなければ獲得できないものなのだろう。もしかすると、それは存在することが奇跡のようなものなのかも知れない。だとすれば、他人への無償の思いやりというものに接した時には、せめてそれを思い出すようにしようではありませんか。



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