アブソリュート・エゴ・レビュー

書籍、映画、音楽、その他もろもろの極私的レビュー。未見の人の参考になればいいなあ。

憂鬱な10か月

2018-11-03 10:06:13 | 
『憂鬱な10か月』 イアン・マキューアン   ☆☆☆☆

 マキューアン新作の邦訳が出たので購入。これがまた人を喰った小説で、語り手はある女性の腹の中にいる十か月の胎児。この胎児が、「私は彼女の腹の中から彼らの会話に耳を傾けている…」などと読者に語りかけるのである。しかも、メッチャおとなびた口調で。いわば、マキューアン版「吾輩は胎児である」だ。当然、名前はまだない。

 訳者あとがきによれば、本書はマキューアンが珍しく細かい下調べをすることなく、想像だけで書いた小説ということだ。まあこれまで社会的コンテクストを重視した小説の中で、色んな職業的ディテールをリアリズムたっぷりに描き込んできたマキューアンにしては、ずいぶんとふざけた小説であることは間違いない。しかも胎児が語り手というだけでなく、ストーリーも胎児の母親とその愛人が母親の夫(つまり胎児の父親)を殺そうとするというスリラー小説みたいな筋立て。が、傑作『愛の続き』でもストーカーとの対決というハリウッド製スリラー映画的なプロットだったし、意外とマキューアンはこういうのが好きなのかも知れない。

 さて、そんなわけで本書の登場人物は少ない。胎児の母親、その愛人、その別居中の夫。後半に多少警察関係者や女流詩人が登場するが、語り手の胎児を除けば大体この三人が主要登場人物である。胎児はそれを腹の中から観察して、色々コメントするという趣向。ちなみに愛人は夫の実の弟である。この男はろくでなしだが、夫は詩の出版業を営んでいて自分も詩を書く売れない詩人で、ロマンティックな善人。妻に嫌われてもともと自分のものである家を追い出され、別居しているが、何かと妻の家へやってきてよりを戻そうと働きかける。が、妻と愛人(というか弟)は彼を殺して不動産含む彼の資産を山分けしようとする。

 従って、本書はかなり変則的な倒叙ミステリと言えなくもない。二人で殺人の計画を練り、実際に実行し、その後警察が来て尋問されると動揺したりする。但し特段のトリックがあるわけでも謎解きがあるわけでもない。マキューアンの意図がミステリを書くことではないことは明らかだ。

 では何が本書の読みどころなのかというと、やはりマキューアンが精密に描き出す人間心理のせめぎ合い、ということになるだろう。つまり胎児が饒舌に描写する三人のキャラクター、それぞれの人間のカテゴリー、その考え方振る舞い方の違い、力関係のうつろいや心理的駆け引き、などである。そしてこれがやっぱり段違いにうまい。胎児が語り手ということで基本はコミカルなトーンだけれども、観察の鋭さと、それを文章で細やかに表現していく辛辣さはマキューアンの独壇場である。たとえば愛人の男の愚かしさの描写などとてもおかしく、会話の中で自分のセリフを「しかし」で終わらせる人物はこの男しかいない、なんてくだりには笑った。

 殺人計画の打ち合わせ中に愛人がすべてのリスクを母親に負わせようとすることが険悪な口論を呼んだり、クライマックスでは二人とも本性剥き出しにした仁義なき諍いが起きたりする。人を殺す罪悪感への対処方法がこの二人でまったく違い、そしてそのことがまた喧嘩の種になったりもする。人間心理を解剖メスのように精密に切り開いていくマキューアンならではの面白さだ。そしてそれを実況中継し、解説するのが全部腹の中にいる胎児なのである。笑える。時々母親の腹を蹴ったりする。

 夫の出版社で契約している女流詩人も二度ほど登場するが、彼女はかすかにしゃがれた声で母音をガアガアいうアヒルのように、語尾をゴロゴロうなるように発音する。これは「ヴォーカル・フライ」と呼ばれる喋り方で、西欧全体に広がりつつあり、なぜか分からないが洗練された喋り方だとされていて、若い高学歴な女性に多いという。こんな解説も実にマキューアンらしい。なんで胎児がそんなことを知っているかというと、母親が聴くインターネットラジオやポッドキャストを一緒に聴いているからである。

 それから、特筆すべきはこの文体。離れ業的に見事だ。翻訳者もいい仕事をしている。いつものマキューアンより更にシャープで華麗な感じだが、これは胎児が語り手というふざけた設定の反作用かも知れない。いやまったく、読んでいてほれぼれする。この文章を読めるだけで快感である。

 ただ、終わりはあっけない。これはミステリ小説ではないので、この二人がこの先どうなるのかという関心で読み進めてきた読者はラストが物足りないと思うかも知れない。加えて、奇抜な設定によりかかった小説であることは否めず、やはり物語としての厚みには欠ける。読み終えた時の小粒感はそこに起因すると思うが、これはやはり精緻かつアクロバティックなナラティヴの魅力を堪能するための小説なのだ。洒落のめした佳作、という趣である。




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