アブソリュート・エゴ・レビュー

書籍、映画、音楽、その他もろもろの極私的レビュー。未見の人の参考になればいいなあ。

春のソナタ

2018-11-06 20:35:37 | 映画
『春のソナタ』 エリック・ロメール   ☆☆☆☆★

 ロメール「四季の物語」のひとつ、『春のソナタ』を所有しているブルーレイで再見した。私は「四季の物語」では『恋の秋』が一番好きなのだが、この『春のソナタ』も『恋の秋』には及ばないまでも、やっぱりロメール独特の香気に溢れる佳作である。

 まず、例によって映像の美しさに魅せられる。今回の季節は春なので、生命が芽吹く春の暖かい感触がすべてを包み込んでいる。物語は登場人物たちがパリとフォンテーヌブローを交互に行き来することで進んでいくので、観客はまず春の陽光に輝くパリの街並みへと、それから若葉の緑や花の白さが目に染みるフォンテーヌブローの田園光景へと誘われる。なんとも心地よい、視覚の饗宴だ。

 プロットはそれほど緊密ではなく、むしろ柔軟な即興演奏を思わせ、複数の登場人物たちが出会うことによって引き起こされる化学反応や心理のさざ波がみどころであることも、『恋の秋』と同じである。ざっとあらすじを説明すると、パリの高校で哲学を教えているジャンヌは上京したいとこに自分のアパートを貸す間、フィアンセのアパートに居候していた(ただしフィアンセは出張か何かで不在)が、スーツケースを抱えて自宅に戻ると、いとこから滞在延長を頼まれる。いやと言えずに自宅を出るジャンヌ。なぜかフィアンセのアパートに戻りたくない彼女は友人宅のパーティーに出て、退屈している時に音楽学校の生徒ナターシャに声をかけられ、なりゆきでナターシャの家に泊まることになる。ジャンヌはナターシャの家に花を飾ったり、ナターシャのピアノ演奏を聞いたり、フォンテーヌブローの別荘を訪れたりして穏やかなひと時を過ごす。

 ナターシャの父親イゴールは恋人エーヴと一緒にいることが多く不在がちだが、やがてジャンヌと顔を合わせる。ジャンヌは彼に好感を持つ。エーヴが嫌いなナタリーはジャンヌとイゴールがお似合いだと言い出す。週末に四人(ジャンヌ、ナタリー、イゴール、エーヴ)がフォンテーヌブローの別荘で顔を合わせた時、ナタリーとエーヴは大喧嘩をし、エーヴは怒って帰ってしまう。ナタリーもボーイフレンドと一緒に消え、ジャンヌとイゴールだけが別荘で夜を迎える。イゴールはジャンヌの手を握り、キスをする。ジャンヌもそれを受け入れるそぶりだったが、直前で翻意してパリの自宅へ帰る。

 大体こんな話だが、この物語の重要なモチーフの一つとして首飾りのミステリがある。ナターシャが父親の恋人エーヴを嫌いなのは、彼女が自己中心的な性格の上にナターシャを子ども扱いするからだが、その嫌悪を決定的にする要素として、大切な祖母の首飾りをエーヴが盗った、もしくはその紛失に責任があるというナターシャの思いがある。イゴールが首飾りをエーヴに貸し、返したもらったその日に首飾りは消えてしまった。エーヴは返したといい、ナターシャは戻っていないという。

 このミステリーは、映画のラストで解決する。結局いくつかの偶然が原因だったことが分かるが、このミステリーとそれがもたらす波紋の広がりは本作の構造をよくあらわしている。これが原因でナターシャとエーヴの関係はこじれ、大喧嘩を招き、更にそれがきっかけとなってジャンヌもナタリーを疑い、更にジャンヌとイゴールを接近させるナタリーの策略を疑うまでになる。諍い、誘惑、嘘、言い訳、誤解、和解、などが連鎖的に波紋を広げ、四人の愛情と諍いのロンドが、パリとフォンテーヌブローの春の中で織りなされていく。

 また、他のあらゆるロメール映画と同じく、『春のソナタ』も対話の映画である。あらゆる場所で登場人物たちは対話する。それは議論であったり、弁明であったり、質問であったり、告発であったりするが、それらのほとんどは単なる世間話ではなく、自分や相手の人生に対する、あるいは愛や芸術に対する態度を問うものである。これが他愛もないエピソードばかりのロメール映画を思いもかけず哲学的に、思索的にしている要因だ。

 この映画の中では主要登場人物四人がすべて揃った場で、(ジャンヌが哲学教師であることから)哲学における経験的な認識と超越論的な(=先験的な)認識の違いについて議論がなされる。簡単にいうと経験的認識とは実際に経験して知ること、超越論的認識とは経験できないが論理的に導き出すことで得られる認識である。これが映画のエピソードの注釈になっているとまでは言わないが、うがった見方をすれば、哲学教師のジャンヌはナタリーの「策略」を疑っていたが首飾りのミステリーが解けることで自分の誤解を知り、涙を流すほどショックを受ける。一方で「超越論的」の意味さえ知らず、すべての自分の経験と直感だけで判断するナタリーは、その真相をこともなげに受け入れる。

 結局人間は自分の眼鏡を通して世界を眺めるしかないのだ、というアイロニーと考えられなくもないが、まあそれはこじつけの類だろう。哲学は、この迷える人々が織りなすロンドに放り込まれたスパイス、と思うぐらいでちょうどいい。その他、三という数字の魔法について、自由について、などについても議論が戦わされる。フランス人ってこういうのが好きだね。

 さて、この物語のそもそもの発端は、実のところジャンヌのフィアンセ(結局一度も登場しない)に対する微妙な距離感にあったとも考えられるが、結局最後に彼女はフィアンセのアパートに戻る。自分のアパートからいとこが出ていったにもかかわらず、である。このようにして、私たちは物語が始まった場所にまた戻ってくる。『春のソナタ』は、観客の心の中に円環のイメージ、シンメトリーのイメージを強く残しつつ幕を下ろすのである。



最新の画像もっと見る

コメントを投稿