崔吉城との対話

日々考えていること、感じていることを書きます。

麻生発言

2009年02月14日 05時56分14秒 | エッセイ
 韓国人より日本人は政治には関心がないようにみえる。アメリカや韓国の国民は自分の手で直接指導者を選ぶという自信があるから政治に関心が強いのであろう。それは政治や政策への期待はもちろんあっても、まずは人を替えるという政権交代への関心である。つまり与野党の政権交代への期待が大きい。変化を進歩と思う人が多いからオバマのチェンジchange、反李承晩のキャッチフレーズのカラボジャ(替えてみよう)などが受け入れられたのである。
 今、日本でも政権交代が可能だと感ずる。麻生総理の発言が主に自民党や内閣支持率を低下させている。野党などは解散選挙を責める必要はないように思う。支持率がより低下するまで待って、選挙を行った方が政権交代が確実になるのではないかと思うからである。麻生氏は日本国民へ政治への関心を高める発言を連発する。そして政権交代への道を開こうとする。オバマ大統領が小浜と同音であることに親密感を感ずるだけではなく、日本人がアメリカ人の政治意識も共有していくのも悪くないと思う。

春一番と神風

2009年02月13日 05時53分45秒 | エッセイ
 春一番の予告が出ている。それは季節の変化を風で表現する日本人の意識構造ともいえる。日本の歴史、特に戦争中には神風特攻隊などといわれたこともある。「神風」に守られるという地域ともいえる朝鮮海峡の近くに住んでから風に敏感になった。選挙などには「追風」、「逆風」という言葉が使われる。韓国では春一番とはいわず、ボンバラム(春風)という。それは柔らかなイメージがある。春の風が恋心を刺激する。特に山菜を採りに出た処女がボンバラムに恋人を作るのは歌や文学のテーマにもなる。危ないのは壮年のバラム(風)の浮気である。韓国語では浮気をバラムピウギ(風を出す)という。
 神楽などで巫女が両手に扇子と鈴を持っていることは周知のとおりである。20世紀初めころシベリアと朝鮮半島のシャーマンを調査した鳥居龍三が朝鮮のシャーマンが扇子を持って儀礼をする場面に関心をもって日本の巫女と比較した文がある。それは巫女が扇子で神「風」を調整することの象徴であろう。もうすぐ紅白の衣裳の巫女が春一番を調整して幸せの風を運んで来ようとしている。

『映像が語る植民地朝鮮』を韓国で出版

2009年02月12日 05時36分17秒 | エッセイ
 韓国の有名出版社の民俗苑から『映像が語る植民地朝鮮』を出版した。1995年下関の東亜大学に赴任直後「日本映像民俗学の会」の大会を主催したことが契機になったものである。この本では1910年代以来の鳥居龍蔵、秋葉隆などの写真、1925年のドイツ人神父が撮った「静かな朝の国」そのほかに、「多島海の探訪」「蔚山達里の農楽」「虱は怖い」などの映像と宣伝映画の画像を分析したものである。この本の序文には感謝の言葉を次のように書いた。
 これらの映像資料はビジュアルフォークロアの北村皆雄氏、韓国の倭館のドイツ人神父の林仁徳氏、韓国映像資料院の鄭ジョンファ氏などから協力を得たものであり、感謝の気持ちでいっぱいである。特に出版にあたっては広島大学時代の弟子であった崔錫栄氏が献身的な協力をしてくれた。また出版社の会長や社長が二度も拙宅を訪ねて下さり、いろいろ相談できたことに感謝する。そして書籍としてこの世に出せる成果は嬉しい。しかし、それよりは出版するまでの愛情深い協力を得てできたその過程に心から感謝する。

アメリカ製菓子の味

2009年02月11日 06時15分08秒 | エッセイ
 アメリカの作家の川嶋擁子氏からアメリカ製のお菓子などが送られてきた。それを食べながら普段感じている日本の食品の特徴が浮かんだ。全部がそうではないがアメリカの菓子は素材の繊維や味が日本製とは違うと感ずる。豆腐にしても、日本の豆腐は細か過ぎて本当の豆の味がしない、柔らかさで好まれるようである。ピーナツ豆腐を食べてみた。ピーナツが大好きな私にも柔らかさしか感じないように原型や味が薄くなっている。日本のマンジュウ類も材料を機械的に挽きすぎた粉から作られており、麦などの材料の原型や味が残らない。中国人や韓国人は丁寧な包装には感動しながら中身には甘さしか感じない。過度な糖分を用いた多くの日本食品には味がそれほど感じられず失望している。極端に言うと細かさを増していくとエキスを飲むようになるかもしれない。食品製造社の研究不足さえ感じる。いくら味は民族の文化とは言っても、本当の味の意味をきちんと考えて発展させるべきであろう。その初歩は糖分を減らすこと、挽く程度を低くすることを希望する。杵で餅をつく方が機械餅より美味しいことを考えよ。

弟子に謝り

2009年02月10日 05時20分52秒 | エッセイ
 40年以上大学教育に従事しているといろいろと後悔することも多くある。特に若い時に学生たちに厳し過ぎたことを後悔することがある。学生運動の激しい時、ある学生リーダーに酷く怒り叱咤したことがある。その後彼は私の前には現れることがなかった。私は常に彼が気になった。彼が卒業して20年余経っても彼のことが心に残った。私は彼の母校の行事で講演に行く時、彼に連絡するように頼んだ。その懇親会に彼が現れた。私は昔叱咤した事を話し、握手をしながら昔のことを謝った。私は弟子に謝ることこそ難しいと感じた。人に謝ること、ある国家が他国に謝罪することは難しいことであろう。しかし謝ることによって和解し、心の平安を得る。
 昨日ある昔の学生から自らを「魯君です」という電話を受けた。彼は1970年代に私が卒論を指導した卒業生、日本に留学し博士号をとり、教授として韓国の学会や研究などに大活躍をしている人である。日本では国会などで「…君」がよく使われるが韓国では大人同士では「君」が使われるのは稀である。しかし私と弟子の関係は「君と先生」の特別な関係である。このような私と弟子の関係は私と私の恩師との関係の継承ともいえる。そこには愛情も継承されているのである。

亀松邸の茶室

2009年02月09日 06時10分04秒 | エッセイ
 下関に来て奇縁ともいえる亀松邸の茶室でお茶をいただいた。中部大学時代の同僚であった井上教授の友人である亀松氏の奥さまと同じバプテスト教会の教友になったのは全く偶然である。この奇縁を彼女は神様の導きだといった。関門の海を見下ろせる「亀松邸」に招待を受けた。背後の小山は借景になり、広い敷地の日本間の茶室に案内された。掛け軸、和紙の窓の傘模様と水仙の生け花などが美しい空間になっている。そこに着物に「変身」(着かえ)したような日本人美女の茶道には細かい仕草のいちいちが幽玄の静的世界として神秘的に伝わってきた。井戸から水を汲み、炭火でお湯をわかして、お茶を立てる。赤いふくさばきなど歴史的古い日本文化そのものであった。亀松氏は木造の仏像のような日本人美男としてその空間を飾っているようであり、微笑を絶やさない。豪華な邸宅が幸せな風景に映る。集まった人の話題も自然に心配りのある優しい「愛の物語り」のようであって、幸せな時間であった。

人種差別

2009年02月08日 06時50分31秒 | エッセイ
 1950年代キングJr.牧師はアメリカの差別的な社会構造を変革changeすることを呼びかけた。彼は演説で「我々はキリスト教徒だ。我々が手にする唯一の武器は、抗議だ」「もし我々が誤っているとすれば、合衆国憲法が誤っているということだ。もし我々が誤っているとすれば、ナザレのイエスは単にユートピアを夢見ただけの夢想家にすぎない」「正義を水のごとく、公正を河のごとく流れせしめるまで闘いぬく」と訴えた。市当局は黒人を次々と逮捕した。テレビや新聞社はこの運動を広く報道した。最高裁判所はモントゴメリーのバス運行に関する条例は違憲であると判決した。というドキュメンタリーを見た。
 それについて「この結果は白人に対する黒人の勝利ではなく、アメリカの正義と民主主義の勝利だ」と言った。私はこの映像を見て白人より黒人の意識が変化していくこと、オバマ大統領まで繋がっていることが分かった。私は古いビデオ「招かざるお客」を出して再び見て感動した。差別と闘うところにキリスト教の正義が働くのを痛感した。日本ではほぼ感じないことである。 

夜中に目が覚めた時

2009年02月07日 04時15分23秒 | エッセイ
 夜中に目が覚める時がある。その時間を大事にすべきである。悩みがあれば悩んでよい。恨むことがあれば恨んでよい。最後に許す心に変わることもある。時には良いアイディアが浮かぶことがある。問題はその時間を不眠症扱いすることである。無理に眠るようにする必要はない。その時を純粋な自分の正味の時間とすべきである。本を読んだり音楽を聴くことも良いが、最も良いのはアイディアを浮かべることである。重要な決心をしてもよい。私は人との関係で雰囲気によって決定したことに後悔することは多くあってもこの時間で決心したことは信憑性の高いものだと思う。このように夜中の時間を大事にすることは天才の作曲家や詩人に限らず誰にでも必要だと思う。今夜私は新しく書きたいテーマが浮かんだ。そろそろラジオ深夜便を聞きながら二度寝をしようとしている。

五木寛之氏の講演

2009年02月06日 06時38分43秒 | エッセイ
 昨夜作家五木寛之氏の講演を聞いた。1932年福岡に生まれ、生後まもなく朝鮮半島に渡って、1947年日本に引き揚げた人である。私はラジオ深夜便で植民地朝鮮での生活と引き上げなどについて彼の話を聞き、本を読むなど注目している。彼は体格、ファッション、学歴、話術そして文章力などを兼備した人だと思われる。一時間ほど待って20分前に会場に着いた時にすでに超満員で800人を超えると感じた。男女、年齢的にも結構バランスを取っている。山口新聞の特別編集委員の佐々木氏と後ろで立って聞いた。
 五木氏は司会者の紹介に不満を表し、全国を講演に歩く話から話を始めた。以前は文化センター、大学などからの依頼がが多かったのは過ぎが、最近は銀行や金融機関、IT関係、医療機関などから呼ばれることが多いという。「死んでも病院には行かない」と思って生きるという。しかし病院では長寿や老後の生活などについて語るという。
 植民地時代の外地から引き揚げた人はまだ日本に多く生きている。その外地での体験が生活力になっているようである。彼もその一人のように思われる。苦労は、時には復活力となって活力ある生き方をされたようである。

下関韓国教育院長交代

2009年02月05日 06時25分22秒 | エッセイ
 長く韓国教育院長を務めた李永松氏が本国へ帰国することになり、新しく女性の徐氏が来られた。昨夜民団役員の招待晩餐会に旧・新の院長が並んで楽しい時間であった。前任者の李院長の活躍した領域を新任者が引き受けるには大変だと思われるが、まず昨夜の晩餐会は人間関係の引き継ぎの始まりとも思われた。同席した民団婦人会長が強くサポートして文化活動を協力して活発化していくという話もあって私は心強く感じた。前任者の李院長の新任者への細かい配慮は彼の人格を表すものであり、美しく感ずる。年度末であちらこちらで人事移動などの変わり現象があると思う。新任者には不安と期待が込められる。
 

私と英語

2009年02月04日 06時04分20秒 | エッセイ
 インターネット、読み物、ニュース、旅行などで日常的に英語に接しなければならない時代になっている。国際化によって英語教育の必要性が強調されている。文部科学省などからも英語で授業を行なうように言われている。大学の授業を英語で行うことが話題になっている。授業が成功するか否かは別として英語教育への刺激になることは間違いないであろう。
 私は英語を専門としたとか、英語圏で留学したことがない。しかし早くから英語に関心をもって勉強をして40年以上になっているがまだ自信がない。ただ英語で本を楽しく読み、ブロークン英語でいろいろな国で調査を行っている。ほぼ毎日英語の放送を聞いている。韓国の李明博大統領は国民に英語教育を強く奨励する政策を打ち出して反発を受けた。シンガポールは国民に言語を選ばせた結果、英語の国になっている。言語には言霊があるとかいわれるがもっとも重要な機能はコミュニケーションの手段であろうと思う。私は母語として韓国語、そして日本語とバイリンガーであり、そして学問的な重要な道具として英語を使っている。英語が私の視野を広げていると思う。それは大学を卒業したばかりで、すぐにある高校の韓国語の教師になったが、英語教員の欠員のために1年間英語を教えなければならない、そしてタイプライターも、さらに米軍の通訳までさせられた辛い体験から英語に関心を持つような契機になったことを今は感謝している。

私の朝一番

2009年02月03日 06時14分20秒 | エッセイ
 私は朝起きてぶら下がり機にぶら下がる習慣をもっている。それは鉄則のように守っている。おそらく20歳頃に結核病の療養の時、医者の指示によって始まったが、今のようにぶら下がるようになったのは1970年代にさかのぼる。韓国から日本に引っ越した時もその台を持ってきて使い、さびてしまったので捨てて、下関に引っ越しして探せず当分の間休止して再び始めた時はお腹の筋肉が痛くて運動量はなく、ただ気分的に習慣として行ったが、やはりいい運動にもなると改めて続けている。新鮮な空気を吸うことと、自分で決めたことを守るという簡単な自己管理と言える。長生きのための運動という意識は全くない。
 人によっては散歩、ジョギング、ヨーガ、水泳、山登り、ゴルフなどを行う。私にはそのようなものはできないし、まず続けることができないと思っている。室内で一人でできることだけをしている。5月高校卒業50周年記念行事でゴルフの項目が入っているが、私は全くできないので社交生活の基礎がないと痛感している。かなり偏った生き方をしていることが分かる。

欠席の理由

2009年02月02日 06時23分01秒 | エッセイ
 いろいろな集まりで欠席者の理由が報告されている。季節的には風邪などの理由が多いが、中には他の用事や約束があるという理由も挙げられる。場合によって欠席者より出席者が少ない時もある。先日ある集まりで欠席の理由をいちいち羅列するのを真面目に聞いていると出席者は「暇な人、他に何もすることがない人」なのかと変に感じた。いろいろある中でどれを優先するかは価値観を端的に表すことである。
 会議などを主催する人は参加者を大切にすべきである。「暇な人」の集まりではないからである。多忙な中で時間と経費を作って参加した人には誠意をもって質高い運営をしなければならない。私にはまだいろいろな所に出席する約束がある。それを守っていくことと、積極的に役割を果たすことを覚悟しなければならない。欠席の言い訳はしないつもりである。

全国民の反戦主義者化

2009年02月01日 06時19分43秒 | エッセイ
 昨日の研究会は私の研究室で私が発表した。公開せず研究分担者4人の前でアイルランドでの現地調査の成果をパワーポイントを利用して、植民地化される過程から戦後における植民地博物館の展示、文学や音楽などの現象を映像を利用して語った。購入してきた英文書籍を1000ページ以上を読んで準備した内容てあった。特にイギリスとアイルランドの間で植民地を生きたケースメントという人物に絞って語った。これは遠い国のことと思われがちだが、実は日韓植民地を研究する上での要になるものであると思う。
 植民地期においては植民者(日本)と被植民地(朝鮮)に二分されるだけではではなく、中間型(帝国主義者、手先、灰色分子)が幅広く存在していた。しかし戦後になるとパラダイムが二分され、韓国では全国民の独立運動、愛国主義者化する現象が起きたし、日本では反戦、反帝国主義者、反植民地者化する現象が起きた。これはただの皮肉ではない。研究とはただ知識的なものではない。深い考え方への追及の楽しみである。