カームラサンの奥之院興廃記

好きな音楽のこと、惹かれる短歌のことなどを、気の向くままに綴っていきます。

追悼記事メモ:OEK創設、岩城宏之さん死去

2006-06-14 15:09:55 | Weblog
《OEK創設、岩城宏之さん死去》
(2006年06月14日朝日新聞マイタウン石川記事)

画像:200回定期公演で車いすで指揮をとった岩城宏之さん=4月28日、金沢市の県立音楽堂で(OEK提供)

 ≫≫「金沢」世界へ指揮 4月、県立音楽堂でタクト≫≫

 13日に亡くなった岩城宏之さんは、「音楽の街・金沢」のイメージを定着させた最大の功労者だった。オーケストラ・アンサンブル金沢(OEK)を設立し、音楽監督として日本を代表する「室内オーケストラ」に育て上げた。関係者や岩城さんを知る人から、惜しむ声が相次いだ。
 岩城さんが金沢にオーケストラを作ろうと決心したのは70年代後半。すでに「イワキ」の名は世界に知られていた。かつて北陸3県の演奏旅行で最も客が集まらなかった金沢。その地をあえて選んだ理由について、朝日新聞の取材に「洋楽を拒否するのは、邦楽に自信と誇りがあるから。工芸品から料理まで数多くの文化の花を開かせている。洋楽も根付く可能性が高いと思っていた」と答えている。
 県などに働きかけ、88年、OEKを設立。オーケストラの名前に文化の薫りがする「金沢」を使用する一方で、メンバーは実力本位で世界から公募した。積極的に海外でも公演。「プロはアマチュアと違って厳しいステージのみで上達する」というのが持論だった。
 金沢との縁はOEKだけではない。01年に完成した県立音楽堂の芸術総監督にも就任した。旧制中学時代には、空襲で東京を焼け出され、金沢に疎開。終戦は金沢で迎え、学校の先生から聞いた言葉が音楽の道へ進むきっかけの一つになる。「これからは、鉄砲を捨てて文化の兵隊さんになろう」
 岩城さんの音楽人生は、病との闘いでもあった。頸椎後縦靭帯骨化症(けいついこうじゅうじんたいこっかしょう)、胃がん、咽頭(いんとう)がん、肺がんなど30回近く手術を繰り返したが、その度に不死鳥のごとく復帰してきた。今年4月28日に県立音楽堂であった演奏会でも車いすでタクトを振ったばかり。それだけに、訃報(ふほう)は関係者にとっては衝撃だった。
 10年以上前から、岩城さんが訪れていた金沢市柿木畠にあるスペイン料理店「カサ・デ・リブ金沢」。今年に入ってからも2度ほど訪れたといい、オーナーシェフ松田登さん(57)の妻の千鶴子さん(52)は「びっくりした」と何度も話した。OEKの専属医「ドクター・イン・レジデンス」として海外公演に同行し、楽団員の健康管理をしていた川北篤・川北病院理事長(75)は「OEKを世界のオーケストラにしようと一生懸命な人でした」と偲(しの)んだ。
 OEKのメンバーに岩城さんの死が知らされたのはこの日午後2時半ごろ。リハーサル中の約40人に山田正幸ゼネラルマネジャー(63)が説明し、全員が舞台で約1分間の黙祷(もくとう)をささげた。
 コンサートマスターの松井直さん(41)は「ある程度覚悟していたが、残念です。岩城さんに怒られないよう、あす(14日)のコンサートでもしっかりと演奏したい」と話した。
 今月1日、山田さんが入院中の岩城さんを見舞った際、話は出来なかったが、両腕は小さく円を描いていたという。傍らにいた岩城さんの妻でピアニストの木村かをりさんに聞くと、「タクトを振っているんですよ」。
 最後まで、タクトを振り続けた人生だった。

http://mytown.asahi.com/ishikawa/news.php?k_id=18000000606140005
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短歌メモから。

2006-06-14 08:46:22 | Weblog
 作曲家リゲティ氏と指揮者岩城さんの訃報に接して。

噴水のオルゴールの蓋は開けられて森のうた口ずさみつつ消えてゆく人  河村壽仁
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