カームラサンの奥之院興廃記

好きな音楽のこと、惹かれる短歌のことなどを、気の向くままに綴っていきます。

短歌メモから。

2020-12-03 16:17:52 | Weblog

短歌メモから。
 
大きなる犬が飼ひ主引つ張つてケーキ屋の前過ぎてゆく夕べ
 
飼ひ主の眼はケースの中のエクレアのうへ 顔はケーキ屋へ向けたまま行く
 
この人に食べさせてはならぬと思つとります。はい、ワン、ワン、ワン
 
飼ひ主がよたよた過ぎたるその後(のち)のしばらくして道に薄暮は来たり

雪の畑(はた)に地蔵はローマ帽被りてをり暴君ネロも愛用せしとふ

ケーキ屋の裏の林で鴉鳴くを合図として辺りは闇に包まる

ローマ帽の地蔵はケーキ屋の灯り見てをり 自転車の巡査ぎこぎこ過ぎて

駅ホームに最終列車やつて来て足早に改札出てゆくスーツのひとり

駅前通りの暗闇のなかをスーツは目指す ケーキ屋の明るき誕生日(バースデー)ケーキ

「有難うございました」スーツを見送るケーキ屋の灯りしづかに絞られてゆく

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マーラーの活躍していた時代にドイツにいた滝廉太郎。

2020-12-03 08:34:05 | Weblog

昨日の朝のこと。非常に早く目が覚めてしまったので、仕事に出掛ける前、ラジオから予約録音しておいたインバル指揮フランクフルト放送響によるグスタフ・マーラーの交響曲第5番嬰ハ短調をじっくりしみじみ聴きつつ、滝廉太郎の評伝をぱらぱら読んだ。

滝廉太郎のドイツ留学は、20世紀に入ってすぐのことだった。以下は、wikipedia記事の記述から。

滝廉太郎は、1901年(明治34年)4月6日、日本人の音楽家では3人目となるヨーロッパ留学生として出国し、5月18日にドイツのベルリンに到着。同地で日本語教師を務めていた文学者の巖谷小波や、ヴァイオリニストの幸田幸、また海軍軍楽隊から派遣されたクラリネット奏者吉本光蔵(後に「君が代行進曲」作曲)などと交友を持ち、共に室内楽を演奏したりした。さらにライプツィヒに向かい、ライプツィヒ音楽院(設立者:メンデルスゾーン、当時の学院長:カール・ライネッケ)に入学する。文部省外国留学生として入学、ロベルト・タイヒミュラーにピアノを、ザーロモン・ヤーダスゾーンに作曲や音楽理論を学ぶが、わずか5か月後の11月に肺結核を発病し、現地の病院で入院治療するが病状は改善せず、帰国を余儀なくされる。1902年(明治35年)7月10日にドイツを発ち、ロンドンを経由して10月17日に横浜に着く。

一方、この当時のグスタフ・マーラーは、wikipedia記事の記述を参照すると次のようだった。すなわち、

1897年春(36歳)、結婚などのためにユダヤ教からローマ・カトリックに改宗。5月、ウィーン宮廷歌劇場(現在のウィーン国立歌劇場)第一楽長に任命され、10月(37歳)に芸術監督となった。1898年(38歳)にはウィーン・フィルハーモニーの指揮者となる。1899年、南オーストリア・ヴェルター湖岸のマイアーニック(Maiernigg)に作曲のための山荘(別荘)を建て『交響曲第4番ト長調』に着手(翌年に完成)。1901年4月(40歳)、ウィーンの聴衆や評論家との折り合いが悪化し、ウィーン・フィルの指揮者を辞任(ウィーン宮廷歌劇場の職は継続)。12月(41歳)、「私の音楽を君自身の音楽と考えることは不可能でしょうか。二人の作曲家の結婚をどう考えますか」と結婚前のアルマ・シントラーに作曲をやめるように申し出、彼女はその後作曲の筆を折った。なお、アルマはアレクサンダー・フォン・ツェムリンスキーに作曲を習い14曲の歌曲を残しており、これはウニヴェルザール出版社より出版されている。1902年3月(41歳)、当時23歳のアルマと結婚。2人とも初婚だった。夏にマイアーニックの山荘で『交響曲第5番嬰ハ短調』が完成。


以下は私の中の妄想である。滝廉太郎の作品として現在まで残されているものはけっして多くはなく、シューベルトなどを彷彿とさせる作品が多い印象だが、ドイツ留学当時の滝廉太郎は新しい音楽潮流に触れる機会もあったはずと想像される。滝の死後、肺結核患者の遺品取扱いの常として、病床の滝が書いていたたくさんの譜面の紙が母親の手によって焼かれたという。その焼かれた紙のなかには、きっと滝廉太郎がドイツで新しい音楽潮流に触れて作曲されたもの(室内楽作品や管弦楽作品を含む)も含まれていただろうと想像してしまう。つくづく惜しいことだったと思う。

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