駅前糸脈

町医者をしながら世の中最前線の動きを感知、駅前から所見を発信。

臓器移植の困難

2009年05月29日 | 医療
 日本で子供の脳死臓器移植を可能にしようという動きがあるようだ。医者のくせに、ようだとは何事かと怒られそうだが、もう何年も前から距離を置いて自分なりに考えてはいる。
 脳死臓器数には限りがある、誰に提供すればよいのだろうか。第三者による選別が行われるようだが、ふざけるなと言われてもサイコロを振りたくなる。
 募金を集め海外へ出て、移植を受けられた方は数多くおられる。果たして、例えばアメリカにどれくらいありがとうの声が届いているだろうか?。私は当事者ではないが、国境を越えた提供に感謝している。しかしそれを表明したことはない。逆のことが日本で出来るだろうかと思う。例えば東南アジアの方が日本へ臓器移植を希望して来られたら、脳死臓器移植を受けることができるだろうか。
 感謝して分け隔てなく他人にも施せる日本があるだろうかとちょっと気になる。
 一方、日本でどのような議論がされていようとも、現実として東南アジアでは臓器売買が行われている、それを購入し移植を受けられた方もいらっしゃる。
 違いはないと言われても、家族からの生体移植は違和感はなく受け入れられても、脳死からの移植には微かな違和感を覚えてしまう。手続きの問題?と言われても臓器移植のために特別な死が設定されているように見えるのを完全には払拭できない。だからどうだと詰め寄られても、命は誰のものかと戸惑う心には人間の都合を何処までと頭の片隅で考えてしまう。人間も機械と同じように、良い部品が手に入るなら悪い部品と交換すればいいと割り切れば、理解できるのだが。
 献血も臓器移植の一種だ。これだけ広く受け入れられているのは、提供者の負担がほとんどないからだろう。そう考えれば死んでしまった者には臓器を提供しても何の負担もないはずという考え方も成り立つかも知れない。死んでしまったんだから使える臓器は使って良いよと臓器提供カードをポケットに入れておけばよいのではないか、勿論こうした表現や考え方には抵抗を覚える方もおられるだろう。
 小児の脳死臓器移植問題は便宜的に割り切れば簡単なことかも知れない、しかし踏み込んで考えれば考えるほど難しい問題で、容易に結論はでない。成人でも現行法では脳死臓器提供が少ないので、増やそうと本人の意思表示を省略しようという考え方が出ている。これはいつか陥った間違いに連なる思考法だと危惧する。
 日本で脳死臓器移植が期待ほど進まないのには理由がある。そこを深く考える必要があるのではないか。短い時間短い文で意を尽くせないが、どちらかの為に書いたのではなく、もっと広くみんなで考えたいと書いてみた。
 
コメント
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