駅前糸脈

町医者をしながら世の中最前線の動きを感知、駅前から所見を発信。

己に気付く

2009年05月20日 | 小考

 自分のことはよく分からないものだ。それに自分と他人との評価はある程度ずれるのが普通だ。世にあって他人がする私への評価は、そうかと受け入れるしかあるまい。まあ、批判は耳に入りにくいものだから、苦言は快くはなくても耳を傾けねばと思っている。
 朝から妙なことを書き始めたが、内省というか自分をある程度客観的に観察する能力はしばしば個人の危機を救う。医療では病識があるかどうかをしばしば問題にする。病識とは自分が病気であることを自覚しそしてその内容をある程度客観的に把握していることをいう。
 内省には自分の己に対する感覚を研ぎ澄ますことと世界の中の自分を俯瞰することの両方が含まれると思う。これが恐らく生きていることの意識のようなもので病識に対し、生識(造語)とでもいうべきものかと考える。こうした考えは哲学や宗教ではもっと深く玄妙に明らかにされているだろう。
 私は町医者として診察室に座って、時にいらいら時にがっかりしながら、何かが足りないと感じてきた。つまりもうチョット病識や生識があったらなあと思うわけだ。蟻地獄というか堂々巡りというか、袋小路に陥り、自分の不調不安不満をぶら下げて医者を転々とし、隣のおばさんの言葉に踊らされ、何万円もの健康食品を買っている人達。あなた、それでは何処にも辿り着きませんよと言いたくなる。残念ながら力不足の私の言葉は彼等の中に入り込んで行かない。
 なぜ私の言葉が上手く浸透してゆかないのかと思うこともある。熱意が足りない、時間が足りない、誠意が足りない。もちろん相手にも色々問題があるわけで、たいてい匙を投げてしまう。経験から精神科医はほとんど役に立たない。心理療法士はたぶん力になると思うが、周りには居ない。信仰が力あるかも知れないが、そうした人達には敬虔な方はほとんどいないので門前で留まっているのだろう。 
 時々恐ろしいことを考える。それは本当は自分はあまり賢くない人が嫌いなのではないか、それが壁を破れない原因ではないかと。

コメント (2)
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