玉川上水の辺りでハナミズキと共に

春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえてすずしかりけり (道元)

父の記録

2005年03月24日 | 捨て猫の独り言
stendogurasu事実の記録から、想像力を働かせることで先の戦争を追体験してみたい。4年まえに84歳であった父が、孫娘(私の長女)へ出した手紙の中に書いた自分史をここに再録してみた。父は耳が不自由だが、今でも健在である。

[1934年17歳] 旧制鹿児島県立二中4年終了、陸軍士官学校予科入学(市ヶ谷) [19歳] 本科に進む [20歳] 航空兵科(所沢)で「飛行機操縦術」の教育開始 [21歳] 埼玉県入間郡豊岡町へ移転、陸軍航空士官学校となる、同校卒業、浜松飛行第7連隊(重爆隊)附となる、浜松陸軍飛行学校で「戦技教育」を受けた後に原隊復帰

[22歳] 飛行第60戦隊附に補せられる(飛行機は九七式重爆撃機)、中支の漢口に着任、以後重慶、成都、昆明付近の各飛行場の爆撃など日中戦争に参加 

[1941年24歳] 陸軍大尉に任ぜられる、太平洋戦争始まり、マレー、シンガポール、フィリッピン等の作戦に参加 [25歳] 浜松陸軍飛行学校教官に補せられる、召集佐尉官(戦闘隊戦隊長要員)として、明野陸軍飛行学校(三重県)へ入校「戦技訓練」を受ける、12月20日に結婚 

[26歳] 陸軍少佐に任ぜられる、飛行第77戦隊長に補せられる(飛行機は通称はやぶさ)、ところが、赴任先であるニュウギニアのホーランジャ飛行場に、同日アメリカ軍が上陸し部隊は壊滅、ジャングルを退却、シンガポールで部隊を再建しようとしたが第77戦隊は解散し教育飛行隊となる 、飛行第105戦隊長に補せられる(飛行機は、まだ乗ったことも無い通称飛燕)
福生飛行場(横田基地)で飛燕の操縦を習得の後、台湾の台中飛行場へ20機を空輸した、途中隊長機がエンジン故障で沖縄の伊江島近くの海に不時着水、強運にも怪我もなく生還、後日遅れて台湾に到着

[1945年27歳] 台中飛行場から宜蘭飛行場(台北南東約40キロメートルの台湾東海岸)へ移駐、沖縄作戦に参加、有為の若い部下15名の方々が特別攻撃で戦死、哀惜の極み、8月15日終戦 [28歳] 2月24日に田辺港(和歌山県)に上陸復員し一市民となる 

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