玉川上水の辺りでハナミズキと共に

春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえてすずしかりけり (道元)

*仏教抹殺

2024年06月13日 | 捨て猫の独り言

 以前、筑摩新書の「廃仏毀釈」を読んだことがあった。今回、「仏教抹殺」という刺激的なタイトルの文春新書を読んだ。著者は嵯峨・正覚寺僧侶でもある鵜飼秀徳(1974年生まれ)で、廃仏毀釈が激しかった日本各地を訪れてのルポルタージュだ。郷里の鹿児島はそのうちの一つだ。現在住んでいる東京では、神仏分離は実施されたが激しい廃仏毀釈はほとんど見られない。多摩西部の多くの市では、寺院と神社が隣り合わせになっている。神仏分離令の意図した通りに、境内地が寺院と神社に切り分けられた結果である。

 鹿児島市内にある島津家の菩提寺である福昌寺(曹洞宗)は今でも廃寺のままである。福昌寺跡には玉龍高校ができ、その校舎の裏に島津家6代から28代までの墓がある。墓所一帯は参拝に訪れる観光客も見られずひっそりしている。この本で知り、機会があれば訪ねてみたいと思ったのは、廃寺となったが再興され、出水市野田にあるという「感応寺(臨済宗)」だ。福昌寺と並ぶ島津家の菩提寺で初代から5代までの墓がある。ここを訪れた著者はどの墓にも鮮やかな花が供えられ、墓の周りもきれいに掃き清められ、鹿児島県人は寺との関わりは薄いがお墓参りへの意識がとても高いと感じたという。

 それにしても鹿児島の人々が廃仏毀釈に抗わず徹底的に寺院を破壊したのはなぜか。その原因に薩摩藩独特の「外城制度」と「郷中教育」が考えられると考察する。武士を効率よく配置するため領内を区分し、その拠点として外城を数多く設ける。武士は半農半兵の状態で地域に溶け込み監視の目を光らせた。いわゆる檀家制度はほとんど機能せず、鹿児島における寺院は「おらが村の寺」ではなかったわけである。郷中教育とは地域ごとに先輩が後輩を指導する武家教育のシステムである。「上からの命令だから」ということで権力に従順に従い破壊に加担していった。

 廃仏毀釈について著者はつぎのように述べている。《これまで幕府によって特権を与えられ、一部では堕落もしていた仏教界が、はからずも綱紀粛正を迫られ(寺院数の)規模が適正化するとともに、社会における仏教の役割が明確化されたという「プラスの側面」もあったのではないか。「寺が消える」という点においてはかつての廃仏毀釈と現在の寺院を取り巻く状況とはさほどかわらない。私はとくに都会人によくみられる~僧侶に対する反発~は、第二の廃仏毀釈の前兆現象と見ている》

 

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