玉川上水の辺りでハナミズキと共に

春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえてすずしかりけり (道元)

そろそろ帰ってきておくれ

2005年02月24日 | ねったぼのつぶやき
 「もう一杯稼いだでしょうが。もうよかが。そろそろ帰ってこんね」

最後の1年余を病院や施設で過ごさざるを得なかった母が、看病に帰省する度に私に繰り返し言った言葉である。
「あと1年頑張って、そうしたら東京と鹿児島を行きかえりできるから」新しい分野の事業を軌道に乗せ、成果をあげることに懸命であった私にとって、定年までにしなければならない段取りが色々あった。

 85歳の母は、元来とても元気で毎年ゴールデンウイークに合わせて、倒れるその年の86歳まで我が家に来ていた。飛行機嫌いだったから、いつも新幹線を一人で乗り継いで来ていた。この年になってパスポートをとるなんてと、喜んで香港旅行に出かけたのは、香港が中国へ返還される前年であった。このときも若い人たちと同じ旅程を何の苦もなくこなした。83歳で大腸癌の手術をし、看病人の私の言いつけに従って1回のトイレの世話をしてもらう事もなく、1週間後には差し入れの新聞を読むまでになった。

 86歳で軽い脳梗塞を起こし、軽いマヒはでたものの杖歩行も出来ていた。マンツーマンで対応できていたならば、結果は違っていたかもしれない。「帰りたい、なぜ帰れない、娘を呼んで」の繰り返しが始まり、老人性のうつ病との診断がつけられて、うつ病の薬がはじまった。その後、母の日常は大きく狂う。そこにストレスによる胃潰瘍で下血し、最後は脳出血により意識不明に陥った。

 母の発病以来、鹿児島との往復が始まった。
長くても1週間、短いときは4~5日。職場から直接鹿児島へ向かい、上京はいつも最終便の繰り返しが4~5回も続いたろうか。最初こそリハビリも施され、私の帰りを待ちわびていたが、回を重ねる毎に私の認知に時間を要するようになった。病院と自宅の往復は1日に数回。病院では母の懇願に応えられない自分にイラダチ、母が寝入って自宅に帰るとアチコチに大事そうに仕舞い込んであるものの整理である。食欲もわかず食べてもほんの少しのみ。ヘトヘトになって帰京する繰り返しだった。

 現在、介護に携わっている方もいらしゃることでしょう。
私たちの両親の世代は、厳しい時代を生き抜き、私たちを育てるために悪戦苦闘してきた。親の子に対する思いははかり知れないものがある。このたび自分なりにやれるだけのことはやったのだからと納得しようとしてみるのだが、親の恩の何十分の一を返せただろうかと思わずにはおれない。

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