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あられの日記

カテゴリーは場所優先。鶴岡八幡宮は寺院・仏閣ではなく「鎌倉」に。一部検索し易さ優先で、花カテゴリーに入れてる場合も。

徳川家光が産まれた場所

2011年06月23日 04時47分02秒 | 歴史散歩
仙波東照宮に隣接して喜多院がある。
そこになぜか<江ゆかりの地>の旗が翻っていた。
なぜに…??
江とは今年のNHK大河ドラマの女主人公です。彼女は浅井長政と織田信長の妹のお市の方との間に産まれた娘であり、豊臣秀吉の側室茶々、淀君の妹です。そして政略結婚の末徳川第二代将軍の徳川秀忠に嫁ぎ、三代将軍となる徳川家光の母となるのです。
まずは観光客が少ないうちに喜多院の庫裡で観覧料400円を支払い客殿と書院の観光開始。

建物内は撮影禁止だそうで。…無念です。なので、肝心のものは写せなかったので、トップ画像は観光ガイドマップからの転写です。上の画像の見取図の中央上部を注目して下さい。
こちらで江は徳川家光を出産しました。
って、何で江戸城で産まれたハズの家光の誕生の間が喜多院にあるかと言いますと、喜多院の歴史を知らねばなりません。
『慶長4(1599)年、喜多院の第27世住職となった天海は、徳川家康に深い学識が認められ、以後、秀忠・家光と三代の将軍に仕えました。
慶長17(1612)年ごろ、家康は天海に喜多院の再興を命じ、数多くの堂塔伽藍が建造されました。そして、喜多院は東の比叡山である「東叡山」の山号に改められました。
寛永15(1638)年、1月28日におこった大火により、山門を残して他はすべて焼失してしまいました。そこで、同年、江戸城紅葉山にあった別殿を移築して再建されたのが、現在でも喜多院に残る客院、書院、庫裡です。』ですって!!
へえ~へえ~へえ~へえ~~っ!!
建物を丸ごと移築したのですね。だから川越の喜多院に家光が産まれた場所が残っているのですね。
撮影は禁じられていて、家光誕生の間に入ることも出来ませんが、手前の畳の間に正座して誕生の間を見上げますと、格子天井に狩野派の植物画が見えます。家光公誕生の間は12畳半。上段の間をなし、床と違い棚が設けられ、襖と張り壁は金地に墨絵の山水が描かれています。なかなかに歴史の現場で楽しいです。

見取図の建物左上角に上向きの矢印を書き込みました。それが上の画像。庭もなかなか楽しい。そしてコレ。

画像奥にある立て札が見えますか?そこには『しだれ桜 家光公お手植え』と書かれています。
家光公お手植え…。三代将軍様もこちらを訪問したことがあるってことなのね。さすが、天海僧正が住職となったお寺です。
家光公と言えば、天皇在位20周年の記念行事で東御苑で開催された盆栽展で、家光公が名付けた五葉松を拝見したことがあるのですが、
東御苑の盆栽特別展(2009年12月20日)の記事家光が愛でてた盆栽「三代将軍」の画像を掲載してあります。
植物って長生きなのですね。としみじみ葉桜となったしだれ桜を鑑賞しました。
さて、家光といえば、対のように語られるおふくさん。いや、春日局。彼女の生活していた部屋も喜多院には残っているのですよ。見取図の右手奥がそれです。こちらも撮影禁止。しかもガイドブックに画像がないので残念ながらお見せ出来ません。
家光誕生の間からごく近い場所に彼女の部屋があったのがわかり少し感動しました。
春日の局の間から庭が見えます。

小堀遠州テイストのお庭です。本人が造ったものかどうかは確認してませんが。
中庭もあります。中庭越しに、客殿、つまり家光誕生の間がある建物の屋根を撮影しました。

瓦葺きじゃないんですね。
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東御苑でごはん。

2011年06月13日 04時56分51秒 | 歴史散歩
近代美術館の回りにはかつての江戸城のお濠が残ってます。
まずは東御苑に入るべく、平川門を目指す。

立て札の背後にかかっているのが平川門に通じる橋です。
立て札には『江戸城築城550年にあたって…左にある『追慕の碑』は、太田道灌公没後450年を記念して建立されましたが、今年は道灌公が長禄元年(1457)にこの千代田の地に江戸城を築城してから、丁度550年に当ります。
この記念すべき時に当り、都市東京と千代田区の今日の繁栄の基礎を築いたとも言える太田道灌公の遺徳を偲んで顕彰の標とします。云々』とありました。
太田道灌、関東を観光するとあちこちで見る名前ですね。例えばコレら。
謎のハイキングコース発見!?(2010年12月11日)の記事太田道灌の首塚
妙伝寺のシャガ(2010年5月23日)の記事太田道灌邸旧跡
太田道灌所縁の地なの?(2009年11月29日)の記事太田道灌の墓
根津権現(2009年11月16日)の記事道灌が社殿を奉納
神田のたい焼き(2009年11月6日)の記事太田道灌姫神社
たまちゃん(2009年5月20日)の記事道灌の命を救った伝説の副猫。

/平川門。
こちらを入ると立派な石垣に出合えます。以前、東御苑に入るには、入口で札をもらう仕組みだったんですが、今回訪れたら札が廃止になってました。

東御苑でお昼~。それを狙ったのは私だけでなく、画像に写ってるのは、どっかの観光ツアーの人。みんな揃いのお弁当を広げてました。人気ブログランキングへ
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新撰組てんこ盛り

2011年06月10日 04時27分13秒 | 歴史散歩
新選組は知名度に反し、所縁の品やエピソードが少ないのがファンの妄想を煽る点であり、隊士の殆どが非業の死を遂げてる所がものの哀れが好きな日本人の心に響く点でもあるのでは?
な~んてね。
ここ日野は副長の土方歳三の生まれた所。新撰組ファンの心をくすぐる場所が点在してるのですよ。
まずトップ画像は『佐藤道場跡に建つ碑』です。読んでみた。
「武州日野宿総名主佐藤彦五郎俊正は武道に熱心な日野宿の若者を集めて剣術の稽古をしていた。後に天然理心流近藤周助の門に入り、嘉永7年に極意皆伝の免許を取った。
この道場には江戸の試衛館から近藤勇や土方歳三、井上源三郎ら新選組で主要な働きをした人々が出稽古に来ていた。
彦五郎の妻のぶは土方歳三の姉で彦五郎…」
あれ??
よ~め~な~い~~保存状態が悪いのか?それとも彫りが甘いのか?せっかくの石碑ですが、途中から読み取り出来ません。
…もしやして、敗因はこの所めっきり衰えている私の目かもしれんが…。
でも後に新選組に入隊する人達がこの『佐藤道場』で顔を合わせたまさに歴史的な場所がここにあったんですよっ!
こ、興奮してきた…。
ちなみに、この碑文を建てたのは土方歳三の家の子孫の方だそうです。

八坂神社から東へ向かう道は実は旧甲州街道です。ハイ。4月4日に散歩した府中。この道を東へ上ると大国魂神社大国魂神社(2011年4月19日)に到着する訳だ。そんな地理配置。佐藤道場の石碑が建つ場所は八坂神社から数百メートルほどの距離にあります。道向こうにあるのはこれ。

府中でも紹介した「高札場」跡。府中高札場と称名寺(2011年4月17日)の記事日野に残るのは石碑のみ。でもかつてはここで土方歳三や沖田総司も高札場にかかる手配書を見上げてたのでしょね。
高札場の隣には日野の図書館があります。

図書館というより、規模は田舎の公民館という規模なのですが…。新選組ファンには垂涎の場所なのですよ。

2階がおそらく日本一と思われる新撰組の書籍を取り揃えてあります。
そりゃもう貴重なものからファンが発行してる紙ものたよりまで。画像を撮りたかったんだけど、閲覧中の人が数名いたので、棚の一部だけ。見回すだけでこの4-5倍新選組の書籍が並んでました。
思わず腰を落ち着けて本をめくってみたい衝動にかられましたが…。
ダンナが椅子で居眠りこいていたので早々に撤収。
なんで彼は目を離した一瞬で寝られるんだろうか?謎だわ~。
そんで、遂に新撰組のメインイベント!!「日野本陣」に到着です。

や~~!!楽しみだっ!!ここはねっ。土方歳三がかつて触れたかもしれない数々の物品が残ってると思うのよね。何があるんだろうか?わくわく。どきどきが戻ってきた!!

ちなみに、日野市にはJRの他モノレールや京王線も通ってまして、土方歳三の像がある高幡不動は京王線&モノレール高幡不動駅が最寄り駅です。以前紹介した記事はこちら。
土方歳三像(2010年6月5日)の記事
高幡不動(2010年6月4日)の記事
近藤勇・土方歳三殉節両雄碑(2010年6月6日)の記事
新選組隊士の位牌(2010年6月7日)の記事

夏コミに何描くか迷ってたのですが、『脳梗塞闘病記』を描く事にしました
しかも4コマ~っ!!
旅行記で一部4コマを描いたことはありますが、本文が4コマというのは始めてです。
無謀ですね…。でも何事もはじめてはあるので、読者さんがお金の支払いがいのある作品を目指して頑張ります。
本のタイトルが衝撃的なんでどうか~?と思って迷ってましたが、私の闘病記はヌルいから読者の方も肩の力を抜いて読める本を造りたいです。
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木製家屋と柳の木

2011年05月26日 04時51分32秒 | 歴史散歩
風呂屋の右隣に仕立屋がある。
トップ画像を見ると、仕立て屋に柳の木が寄り添っているみたいだ。とても良く似合っている。まるで絵画のようだ。波津さんの漫画のようだ。ん~?柳の前が土の道で、なおかつ水路があれば完璧だけど。ここのたてもの園は、明治・大正時代の東京のテイストを味わうことが出来て楽しいなあ。

仕立て屋の店先です。う~ん。着物ってこうやって吊るすのか…。
や。一昨年の秋、甥っ子が結婚しまして、その時に着物着たんだけどね。11月だというのに、初夏の陽気となりまして、も。汗だくになっちゃったのね。着物を脱いだものの、衣紋掛けに掛けてみると、すそを引きずってしまってね。そっか、もっと高い所から吊るすべきだったんだね。

店の裏にある作業場です。着物って巾が決まってるからこういう作業場になるんだね。着物の縫製って使う範囲がコンパクトだなあ。
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ここにも皇居の電燈がっ!!

2011年05月21日 04時25分26秒 | 歴史散歩
寛永寺の石灯籠の検索に失敗。
砧公園の隣に運動公園と上野の東照宮前で見た石灯籠の画像をファイルを600枚以上遡って探したんですが、見つけ切れませんでした。
それが数日前の記事。
したらですね。
「リベンジしなさい」と言われてるような皇居正門石橋飾電燈が江戸東京たてもの園にも展示してあったんですよ。
…これって?まさかまた検索に挑戦しろってことか??
…心当たりは既に3カ所。
ああ。やってやろうじゃないのっ!!
とヤケクソ気味にスタートです。さ~て…。どれがまず検索にひっかかるかな~?
 
皇居の二重橋の上。伏見櫓(2009年6月18日)の記事一昨年、皇居参観コースを申し込んだ時に、二重橋で撮影したもの。つまりこれは現役の電燈です。初代の電燈に比べると、すっきりしたデザインになってます。

上野の東京芸大にある電燈。こちらはお役ごめんになった皇居の電燈。東京芸大特別公開(2010年12月20日)の記事11月の第一週は東京都は文化財公開ウィークなのですよ。電燈の背後の建物を見学目的ででかけたら皇居の電燈が置いてあったのだ。
見比べると、芸大の電燈は皇居の二重橋で現役の電燈と同じかな?微妙に違ってる気もするが…。初代とは明らかに違うなコレ。

もう一つ皇居の電燈を見たのは皇居に隣接する東御苑。

よっしゃあ~~。コンプリートっ!!
画像は写しとくものだね。いつ必要になるかわからんもの。
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高橋是清邸

2011年05月19日 04時22分02秒 | 歴史散歩
NHKのドラマ「坂の上の雲」で西田敏行が演じているのが高橋是清。秋山兄弟の先生です。
彼は青山通りの港区赤坂に屋敷を構えてました。高橋是清翁記念公園(2011年4月4日)の記事参照してね。
3月9日にでかけた乃木坂ー青山霊園ー高橋是清翁公園ー赤坂プリンスホテル散歩の時に立ち寄りました。そこは既にサラリーマンの憩いの公園となっていて、建物は残ってませんでした。建物はどこへ行ったか?
小金井公園内の江戸東京たてもの園の中あったんですね。
ここはたてもの園でも人気のポイントで、訪問した時もそこそこ見学者が多かったんですが、もっと多い時もあるらしく「30分待ち」の看板が入口脇に置いてありました。

見取図です。中に入ると…。

古い吹きガラスの歪んだ視界の向こうに日本庭園が見えます。
ん???
アレ??
これってもしや??

外へ回って確認。
これってアレですよね。赤坂の公園。そっくりなんですけど??
ね、念のためチェックだ。
検索検索。
上の画像が赤坂の高橋是清公園の画像です。
感じは似てる。細かい所は違うけど。似せる努力をしたんだなあ…。
内部公開もされていて、2階へ上がると、人々が足を止める部屋がある。平面図でいうと2階の八畳間。ここが高橋是清が書斎として普段使っていた場所であり、彼が死んだ場所です。
邸宅前にある説明板によりますと
『経済通の政治家として、明治から昭和の初めにかけて日本の政治を担った高橋是清の住まいの主屋部分である。是清は、赤坂の丹波篠山藩青山家の中屋敷跡地約6,600平方メートルを購入し、1902年(明治35)に屋敷を建てた。総栂普請の主屋は、複雑な屋根構成をもっており、また当時としては高価なガラス障子を縁周りに多量に使用している。赤坂にあったころは、主屋のほか3階建ての土蔵や、離れ座敷がある大きな屋敷だった。
1936年(昭和11)、是清はこの建物の2階で青年将校の凶弾に倒れた(2、26事件)。敷地と屋敷はまもなく東京市に寄付され、記念公園となった。是清の眠る多摩霊園に移築され、休憩所として利用されていた主屋部分が、この場所に移築された。 建築年1902年(明治35) 旧所在地:港区赤坂7丁目』
そうか。赤坂から直接ここへ移築したんじゃなくて、一端多摩霊園に移築されていたんですね。
多摩霊園には高橋是清の眠るお墓があるので、そこで建物の余生を送るってのも良かったかもな。
外へ出て建物を庭から見上げてみた。

もっと寄ってみる。

なかなか含蓄のあるポイントでした。満足。
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こんな所にも寛永寺の灯籠が

2011年05月18日 04時18分49秒 | 歴史散歩
12時をまわったので三井の豪邸を見学した後、まずは腹ごしらえ。ってなことで、テーブルといすと桜があるエントランス広場でいつものお昼~。

ちっ。相変わらずパンの写真は出来がいい…。ムカつく。
ダンナのお昼は長いので、ほっておくことにして次いってみよう~。

旧自証院霊屋(きゅうじしょういんおたまや) 尾張藩主徳川光友の正室千代姫が、その母お振の方(三代将軍徳川家光の側室)を供養するために建立した霊屋です。この建物は東京都の文化財指定を受けています。/新宿区市ヶ谷富久町 1652年(慶安5)
普段三方の扉は閉まってるのですが、訪問した時は開けてあってラッキーでした。
絢爛豪華な装飾。写真を撮りそびったのですが、屋根の横にあった赤鬼装飾もとても綺麗でした。
江戸時代の構造物は木造建築物が基本。それって火に弱い。江戸時代、江戸に既に100万人も住んでたから、火事が頻繁にあったとかなんとか。そこへ関東大震災。太平洋戦争の空襲で、東京に残ってた江戸時代の豪華な構造物は大概火災で焼失しちゃって、もうほとんど残っていない。
これは見る価値ありますよっ。なにげに根津神社の本殿に色彩が似てると思ったのは気のせいか?
園内には野外展示物が散在しています。中には古墳の石棺や古墳時代の住居跡などがありますが、多くは石製の庚申塔や馬頭観世音や五輪塔など。あれ?これってアレなんでは??

ハイっ。また出た寛永寺の石灯籠です。
…ほんまにあちこちにあるなあ…。
………。
検索かけてみようかな?今までに出合った寛永寺の石灯籠。

こちら府中競馬場にあった石灯籠。競馬場でお花見(2011.4.23の記事)です。
上野東照宮の狛犬2009年7月24日の記事かろうじて灯籠が写ってましたが…。形状の確認は難しいなコレ。
んでもって他の寛永寺の石灯籠の画像は?っと????
…見つからない。
あれ??
砧公園の隣の運動公園で見た石灯籠の画像…。もしや?撮影しなかったのか??私…。
そ~れ~に~~。上野の寛永寺、つーか、東照宮の所で石灯籠一杯あったじゃんっ!が。画像は~~!?
す、すみません。企画倒れです。やっちゃったよ…。

に、苦い~~っ!!
やっちゃいました…。
旅先でお茶を買ってくるのはよくあることで、お手軽なティーパックの他に、茶葉だけ買ってくることもあります。
んでもって、帰国後茶葉を買ったことを忘れて放置するのもままあることで…。
そういう怪しいお茶がストッカーにいろいろあるんです。我が家には。
休憩しようと、茶葉をお茶パックに詰め替えて、保存してあるタッパーからお茶パックを取り出し、「ウーロン茶」だと思って飲んだらば…。
苦丁茶でした!!
マ、マママママジで~~っ!!
苦丁茶は漢字で見る通り、大変苦いお茶なんですよ。
苦さで思い出したけど、これ、確か、中国の広西チワン族自治区の田舎町で購入した奴です。そこが苦丁茶の本場だったんだよね
苦さで頭が冴えてきた気がする。
ん~~、苦~いっ!!マズ~~いっ!!もう一杯っ!!!
あんまり苦いせいなのか、なんだか味覚が一時破壊されてる気がする。
このお茶、まれに日本でも見かけることがあるんだけど、購入する人ってどういう目的で買ってるんだろか?私は自分が何でコレを購入したのか思い出せません…。何か見失っていたとしか思えん…。
でも苦丁茶をもう入れちゃったんだよな。
あ~~。貧乏性が発動か!!まあ、ハラは壊れんハズ…。だって苦丁茶の効能って、下痢止めとか、デトックス作用有りだったハズ…。
え~と?効能って飲用後、どれくらいだ?
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源義家と大国魂神社

2011年04月18日 04時39分31秒 | 歴史散歩
府中にある伊勢丹に沿って延びる道は大国魂神社の参道です。

参道はけやき並木が延びている。並木の途中で銅像を見つけた。誰だろう??
実は源義家なんだって。
あ。説明文発見。
「大国魂神社と馬場大門けやき並木
馬場大門けやき並木は大国魂神社の参道であり、江戸時代には並木北端(都立農業高校付近、けやき並木南端から550メートル余り北)に大国魂神社の木製の一の鳥居が建立されていました。現在では昭和26年に寄進された大鳥居(二の鳥居)が境内に建立されています。
けやき並木の起源は源頼義・義家父子が奥州・安部氏反乱(「前九年の役」と呼ばれ、永承6年(1051年)から康平5年(1062年)までの乱)の平定の途中、大国魂神社に戦勝を祈願し、平定後も参拝してけやきの苗千本を奉植したのが始まりと伝えられています。
現在のけやき並木は天正18年(1590年)に徳川家康が江戸に入り、慶長年中(1596-1615)に二筋の馬場を寄進し、両側に土手を築いてその上にけやきの苗を植えたのが始まりです。その後、寛文7年(1667年)に老中久世大和守が府中宿の大火(正保3年(1646年))で焼失した六所宮(大国魂神社)の再興とともにけやき並木の補植を行っています。
なお、徳川家康によるけやき並木馬場の寄進は、府中で伝統ある馬市は戦国時代から江戸時代初期にかけて、関東でも有数の軍馬の供給地であり、馬市は5月3日の「駒くらべ」の日から始まり、9月晦日まで5ケ月にわたって開催されました。
けやき並木は大正13年、国の2番目の天然記念物に地域指定されています。毎年5月の例大祭(くらやみ祭)では、3日にけやき並木で夕方から囃子の競演、競馬式(駒くらべ)が執り行われています。」ですって。
へえ~。源義家って前九年の役の平定にかかわっていたのか…。つーか、そんなに古い時代にもう源氏がいたってことに驚きました。

けやき並木は旧甲州街道をまたいで、大国魂神社に到達します。画像がソレです。立派なけやきでしょう?

昨日チューリップを見に昭和記念公園へおでかけ。ついでにJR日野駅で途中下車して新撰組歴史散歩。帰りに町田でお買い物というコースだったんですが、小田急線で久々に特急ロマンスカーが走っているのを見かけました。東北関東大震災以後、節電の為ロマンスカーは運休してましたが、いつのまにやら再開していたのですね。上り下りのロマンスカーが町田駅ですれ違ったので、ロマンスカーの本数も元通りなのかしら??
ともあれ、昨日の昭和記念公園は入園料が無料だったのも手伝って、しゃれにならない人出でした。すんごいお花見客!まあ。花見の目的は桜からチューリップ、アイランドポピー、菜の花、ムラサキハナナと変化してましたが…。楽しく飲み食い出来たらそれでいい人々で公園は人で一杯でした!この時の記事はいずれまた。…6月くらいか??
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府中高札場と称名寺

2011年04月17日 04時26分22秒 | 歴史散歩
旧甲州街道と府中街道の交わる場所に府中高札場はある。ここは東京都指定旧跡だ。
説明文があった。
「法度、掟書、犯罪人の罪状などをしるし、交通の多い市場、辻などに掲げた板札を高札といい、庶民の間に徹底させるためこれら高札を掲げる場所を高札場といった。これらは中世末期からあったが、江戸時代が最も盛んとなり明治3年(1870)廃止された。高札場は無年貢地で街道の宿場や村の名主宅前など目立つ場所に普通設置され、江戸には日本橋など6カ所の大高札場をはじめ35カ所に高札場があったという。
府中の高札場は、府中市において甲州街道と鎌倉街道の交差する所、大国魂神社旅所の柵内にあり、屋根を有する札懸けで、これに6枚ぐらいの高札が掛けられていた。 昭和62年3月20日 東京都教育委員会」

高札場で交差点を渡り北へ。しばらく歩くと称名寺がある。ここはしだれ桜が見頃を迎えていたので、4月5日の記事で紹介した。

現在一部工事中なのか、境内にトラックが止まってました。上の画像の左に、時宗を開いた一遍上人の像がありました。説明板発見。
「時宗称名寺
無住起立天慶3年。有信起立寛元3年。
開山道阿上人一光大和尚は都三井寺の法師にして法然上人の法門に入り後関東に下り寛元3年この道場に留り昼夜出離の大道を勧め又この道場を改め諸法山相○院称名寺と号す。寛元4年8月鎌倉より、恵信僧都の御作三尊の阿弥陀如来を安置し奉る。
伝うるところによれば当山は六孫王経基が武蔵介であったときの館跡という。現在の本堂は中興57世深蓮社入誉上人其阿円信老和尚が自ら蚕を飼い基金を作り明治初年に建立された向拝は昭和38年5月新築。
境内の地蔵堂は日限子地蔵尊をまつり、近隣の信仰が非常に厚い当山50世廓蓮社忍誉上人他阿万的大和尚が念持仏として木造の地蔵尊二体をつくりそれを石地蔵の台座の中にお納めしてある。昭和40年5月8日現在のコンクリートづくりの御堂に改築した。 府中観光協会 昭和53年3月」
え~と…。言葉が難し過ぎると思ったのは私だけ?

しだれ桜が綺麗だったのでもう一枚。

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弁慶の硯井戸

2011年04月15日 04時52分25秒 | 歴史散歩
JR南武線の分倍河原駅前にある新田義貞公像を鑑賞後、旧甲州街道へ向かう。この辺りは始めての訪問につき、分かり易い道が迷いにくいと思ってチョイス。このチョイスはなかなかナイスで、道々昭和の香りが漂う民家が散見出来ます。先へ進むのがた~の~し~い~~
あれ?
なんか石板発見。
「弁慶坂 『江戸名所図会』(江戸時代の地誌)に、「甲州街道に架する所の橋をも弁慶橋となづけ、東の坂を弁慶坂と呼べり」とあります。
この坂は、高安寺に伝わる弁慶の伝説に由来します。これは、高安寺の堂のうしろにある古井戸から弁慶がこの井戸の水を汲んで硯の水とし、大般若経を書写したと伝えられるものです。高安寺は、往古建長寺の末寺で、足利尊氏が武蔵の国の安国寺として中興した名刹です。この地は武蔵守藤原秀郷の館跡ともいわれています』ですって!
…なんか、歴史上のビッグネームが2人も登場したんですけど。
そいうえば、弁慶って武蔵坊弁慶って言うんだよね。武蔵ってまさにこの辺りじゃん…。何か関係あるのか?しかも足利尊氏って、それ、室鉢幕府開いた人でしょう…。
え~と?高安寺ってどこにあるんだ?
探すこともなく、旧甲州街道を道なりに歩いてゆくと程なく「高安寺」の入口がありました。

説明板発見。
「山門は本堂の東方に位置する規模の大きい二重門門である。木造(柱・梁等の構造材はすべて欅)。二階建てで、屋根は入母屋造銅板葺き、柱は全て円形である。初層の左右からも出入り出来る点に特徴がある。」
山門右前にあるのはまだ咲いてない桜の模様。もう少ししたら見頃が来るのか?

説明はともかくっ!これっ!!
軒下の飾りが天女になってます。ここにあるのは多くは獅子や龍や朱雀(もしやして鳳凰かも)の模様です。記憶限り、天女の装飾を見たの始めてっ
なかなか興奮しつつ見上げてましたらば、あれ??山門にあるの金剛像じゃない。仁王でもないよ。なんじゃこりゃ~~っ!!

奪衣婆ってあれだよね?三途の川で亡者の衣服を剥ぐ人。確か夫婦で。ダンナさんの名前は何だっけ??忘れた。
本堂の前に弁慶の硯井戸の行き方を見つけました。
画像撮ったんだけどね。なんか、曲がってしまいました。高安寺の縁起も撮影したけど、文章が曲がって切れて読めない部分があって一部正確じゃないんだけど紹介。
「…その後市川山見性寺(宗派不明)が建立されたと伝えられている。しかし後に足利尊氏公、将軍となるやこの寺を改めて、安国利生の祈願所として、龍門山高安護国禅寺を再建した。これは尊氏が全国(66ケ国2島)に建立した安国寺の一つで、武蔵国のそれが当山である。
当時は鎌倉建長寺末の臨済宗で、開山は大徹心悟禅師であった。時に暦応年間と伝えられる。その昔は大伽藍で塔頭十院末寺も75院あり、寺領も広く東は代田村、西は貝坂、南は向山、北は山口に及んだという。
その後兵乱の間しばしば将軍家の陣所となり、小田原北條氏の庇護も受けたが、歴年の兵戦を経て衰えて大刹の姿も失っていった。
時に慶長年間青梅の海禅寺題世関州徳光禅寺が、当山を再興し、済派を改めて曹洞宗となり今日に至る。開基足利尊氏公の発願である安国利生の祈願所として、毎朝朝課前に、大般若経転読の祈願を行っている。」
このお寺も栄枯盛衰があったんですね。

秀郷稲荷です。高安寺の墓地の奥にあります。
「秀郷は田原藤太秀郷公を当山鎮守として裏山に祠る」
そんでもって、本日の記事のタイトルの「弁慶硯の井戸」これがトップ画像。
説明文には「見性寺と呼ばれた頃の事。義経は兄頼朝の怒りにふれ腰越まで来たが、鎌倉入りは許されなかった。やむなく京都へ帰る途中、暫く見性寺に足止めし、弁慶等と赦免祈願のため大般若経を写したという。その時裏山から清水を汲み取ったので弁慶の硯の井戸の遺跡がある。」だそうで…。
本当かどうかはわかりません。がロマンはある。義経&弁慶の主従がセットになった逸話はなかなか残ってないんだよね~。

弁慶の硯の井戸がある場所は墓地を抜けていくのですが、ここで今年始めての桜の花を確認。うきうきと写真撮っちゃった。

山門まで戻ると、紅色の花の木があった。これ、さっきは気づかなかったのね。…う~ん?寒桜かしら?でも今年の桜が遅いからって、4月にまだ花が残ってるものなの??

さっきニュースで管さんが、風評被害に会って苦しんでいるJAの人が持参した、きゅうりといちごを食べてみせるパフォーマンスをしていた。
でも管さんは見るからに嫌々きゅうりといちごを食べていた。
総理を自分から止めることも出来ない人だが、せめて美味しそうに食べること位やって見せればいいのに…。
管さんが嫌々しかめっつらできゅうりやいちごをかじる画面を見せられて、いちごときゅうりは大丈夫と消費者にアピール出来たとは思えない。大根役者だってもっとマシな演技をやってみせる。
日本人は自分の国の政治の舵取りしている人にどこまで失望すればいいのだろう…。
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高橋是清翁記念公園

2011年04月04日 04時18分16秒 | 歴史散歩
高橋是清氏もNHKのドラマ「坂の上の雲」の登場人物です。ドラマでは西田敏行さんが演じてました。
ドラマでは日露戦争当時日銀副総裁として戦費調達で奔走してました。
少し歴史に詳しい方なら、二・二六事件のおいて、赤坂の自宅2階で青年将校らに暗殺されたことを思い出されるかもしれません。その事件の現場が、現在「高橋是清翁記念公園」となっています。是清が住んでいた母屋は小金井市の江戸東京たてもの園に移築されていて、公園内には残されていません。公園にかつてあった建物は、太平洋戦争時の空襲で焼失してしまい、残ってません。

園内見取図です。
園内におかしなものが…。
何じゃそりゃ~。

こんなんでした。あちこちにあります。石灯籠ならともかく、こりゃ何でしょうか?是清さんが自分ちに飾ったんだろうか?どうなんだろう…。

かつての庭はそのまま石や池が残っています。
ここにあるベンチでいつものパンと熱いお茶でお昼ごはん。
むむ??
ハトが集まってきた。おっ。スズメも群れでやってきた。…。ここへパンくずを放り込んだらどうなるのか??
…悪魔な遊びだ。
やってみた。
何羽もいるので、ついばんだら即死守してます。
中には自分の身体の1/5くらいもあるパンくずを加えて飛び去る強者も。

幻の桜ーー。
皆さんには桜の開花を知る桜がありますか?それはトイレの窓から見える庭の桜だったり、通勤電車の車窓にある公園の桜だったりの私の桜。
私にとっては小田急相模原駅の線路南側にあった桜の木でした。その桜が花をつけると、お花見にでかけて丁度いい咲き具合だったのですが…。
数年前、駅の改修工事で撤去されちゃいました。その後指標にしていた桜はベランダから見える民家の桜の大木。立派な木で、民家の屋根をすっぽり覆ってしまうような丸い枝の桜が花をつけるとそりゃ見事だったんですが…。おととし、民家がアパートに変身。そんでもって立派な桜は切り倒されてしまったのです…。立派な桜は幹も立派で、切り倒すのも大変そうでしたが…。
そうなると、新たな指標になる桜を探さないと!出来たら毎日目で確認出来る距離にあるやつっ。
探しました。
散歩道にあった桜並木。数年前に無惨に枝うちされてしまい、見る影もない。なんだってそんな酷いことをするのか疑問だったんですが、理由が分かった時に唖然としました。
入院していた時、4-5日お隣のベットにいたのが植木屋の奥さんでした。彼女いわく「桜はね、葉っぱが嫌われるの。大量に落ちるから、始末がね…」
「葉っぱって…。それ、植物なんだから当り前なんじゃ…」
「嫌われるの。うちもね。商売だから枝うちするけど、お父さんも嫌がる仕事なの」
なんですって。入院からもうする3年となり、ぼちぼち枝も延びて来てるかも?と自転車を走らせましたらば、枝の切り跡も真新しい痛々しい桜がずらりと。
…散歩道は桜並木が先にあって、後から住宅街になったと思われるんだけど…。
近所の公園にあったさるすべりは、何度も枝打ちを繰り返した挙げ句、枯れてしまい撤去されてしまいました。現在は木のない四角い空間が残るだけの味気ない公園になってしまった。堂々とした枝いっぱいに花をつけた桜並木だったのに。あの姿は二度と戻らないのでしょね。
酷いよな。枝打ちしていいのは杉だけじゃ!
でも桜。桜。近所にソメイヨシノってどこに残ってたっけ?ベランダから見える大きめの木って残ってたっけ??ぼちぼち桜本番でしょう??

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乃木大将と辻占少年の像

2011年03月31日 04時38分33秒 | 歴史散歩
旧乃木邸の庭には興味深いものが点在している。元々あったものもあるけど、後から設置したあれこれもあってちょっ賑やかだ。
トップ画像の乃木大将と辻占少年の像も移設されたもの。
元々この像は現在の六本木6丁目にあった旧ニッカ池の縁にありましたが、池を整備する際に移設されました。
「今に伝えられる乃木将軍と辻占少年の話は、乃木希典が陸軍少将だった明治24年に、よ用務で金沢を訪れた折りのことです。希典は金沢で偶然当時8歳の今越清三郎少年に出会います。今越少年は辻占売りを営みながら一家の生活を支えていました。この姿に感銘を受けた希典は、少年を励まし、金2円を手渡しました。今越少年はこの恩を忘れることなく、努力を重ね金箔業の世界で大きな実績を積み上げました。
この像は乃木希典の人となりを伝えるものとして造立されました。 平成13年9月」とありました。
/水師営の棗の樹の孫の木。
あ。こりゃまた旅先で見かけた奴が登場ですね。

こちらは旅順の水師営にある棗の樹。
乃木将軍とロシアのステッセルが会見した時は大きな木で馬を繋いだとか。でも当時の樹は枯れてしまい、植え直した樹も枯れて現在あるこれは何度めかの樹だそうですが、訪問し多7月に葉っぱ1枚もないので近いうちにまた植え替えかもしれない…。

なぜにこんな所にマッカーサーが植えたハナミズキがあるのか??マッカーサーが植える場所を選んでここに植えたのか?それともこれも移植して結果ここに植わってるのか??
ハナミズキはわかりにくいけど、上の画面右はしにある樹です。
/乃木邸祖霊社。
って、旅順攻略戦で亡くなった息子さんの霊もお祀りしてるのですね。そう言えば、203高地で希望者は…ってな事で、私は乃木将軍の息子さんのお墓にもごあいさつして来たんだった。確か…。画像画像。
あ、ありました。これです。gooの画像って検索しにくいんだよね。これ探すのに226ページも遡っちゃったよ。ふう。

最後にこれ。どっかの陸軍歩兵大佐が建てたようですね。乃木大将が自宅として使用してた時には大将が植樹した樹の立て札があるのに対し、軍事色の残るものは出来たらここからのけて欲しいなあ…。

東北関東大地震から早20日。
でも未だに避難場所の人が「お風呂に入りたい。下着を取り替えたい」と言ってる映像が流れるってどうゆうことなんだろう…。
まさか何日も前に撮影したものの使い回しなのか?
や。そんなことする意味がない。やはりリアルな現状なのか??
私事で恐縮ですが、脳梗塞を5月末に発症して、即病院おくり。そのまま1ヶ月入院したことがある。
その時24時間の点滴を途切れることなくうけた。管が身体に繋いであって延々お風呂に入れなかった。左半身に麻痺が出てトイレに行くのもナースコールして車いすで送迎されていた。ベッドから降りることも出来ない。身体が拭けない。下着を替えたい。歩けないから病室を出て息抜きも出来ん。やることもないからベッドの上で出来るリハビリをやけくそになって延々繰り返してました!したら、おしりにあせもが出来た…。
1週間以上風呂に入れないと、なんか人間の尊厳が失われてく気がしました。自分が汚いと気力が出ない。特に女の人には辛過ぎます。うつになるなと言うのが無理という日々をおくったことがあります。
せめて避難所にいる人、地震や津波の被害から早く立ち直ろうと奮闘してる人に自由にお風呂に入れる環境を提供してあげて。こんな所でつぶやいても何にもなりませんが、被災して大変な人から尊厳まで奪ってはいけないと思うのです。

あり得ないんですけどっ!!
何に怒ってるかって、それは天気予報ですよっ!!
今現在、関東に暮らしてる人は雨降りにはとってもナーバスです。なのにっ!!今日曇り時々雨なんですよっ!!
お天気ニュースがんばってくれっ。晴れ予報が曇りでも曇りが晴れでも何も言わんけど、雨降りだけは当ててくれっ!頼むっ!!
ちなみに、今日は晴れ時々曇りの予報でした。なんで雨が降ってくるんじゃぁ~~。
おでかけ目的はぼちぼち電気屋のCDラジカセ入荷したかな~?と覗きに行ったんですが…。近所の●ジマ電気の座間店のCDラジカセの棚は先日見た時となんら変わりがなく…。補充の気配はありませんでした。空っぽです。
ちなみに。乾電池売り場もついでに覗いてきた。単4のみ在庫がありました。あと充電式の電池も在庫ありました。
夏に備えて我が家もLED電球にすべきかと電球売り場も覗いてきたのですが…。
何あのわかりにくいのっ??なんかどの電球を購入したいいのやらさっぱりわからなくて、すごすごと戻ってきました。
普通電球を購入する時って、20W電球を買い買える場合、20Wって書いてある電球を探すよね??でもLED電球は違うんだよ。なんだかワット数の小さいのが何種類もあってね。何を目印にして探せばいいのか??
おばさんはねっ。電気屋なんか何度も行きたくないんだよっ。電気屋で何時間も時間潰しが出来ちゃうおじさんとは違うんだよっ。おじさんは電球に萌えないんだから、おばさんに分かり易く売り場を整えるべきなんじゃないんですかねっ!!
と。敗北宣言して帰宅しちゃいましたよ。あ~あ…。
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旧乃木邸と馬房

2011年03月30日 04時30分59秒 | 歴史散歩
乃木大将は馬が好きでした。トップ画像は乃木邸にある馬房です。
敷地内にある立て看板には
「有形文化財 港区指定文化財『旧乃木邸及び馬小屋』
旧乃木邸は、明治35(1902)に新築されたもので、乃木希典夫妻が大正元年(1912)9月13日、明治天皇御大喪の日、明治天皇に従って殉死するまでここに住んでいた。将軍がドイツ留学中に見たフランス軍隊の建物を模範にして建てたというもので、明治期の洋風建築が接客を目的とする豪華な建物が、和風住宅に洋風の応接室を付属させたものが多いのに比べ、この邸宅では、軍人の家らしく、飾り気がなく簡素で合理的に作られている。建坪は168平方メートル。木造平屋建て。日本瓦葺きで傾斜地を巧みに利用し、建物全体に半地下構造をもつ。
馬小屋は、平屋建て。日本瓦葺きで邸宅が邸宅が新築される以前、明治22年(1889)に建てられた。間口約12、5メートル奥行き4、5メートルの細長い建物には、4つに区画された馬房や、馬糧庫等がある。住居が木造であるのに対し、馬小屋がレンガ造りで立派だ。という評判のあったもので、馬をかわいがり大切にした大将の人柄が偲ばれる。 昭和62年10月28日 港区教育委員会」とあります。
/馬用の井戸までありました。

馬房の柱に「壽」号って書いてある…。何やら心あたりが…。もしや?
あ。看板発見。
「愛馬の由来。
正馬壽号はステッセル将軍の愛用したアラビア産の牡馬で明治38年1月5日水師営会見の際に乃木大将に贈らんとしたが、大将はその志を謝し、直ちにこれを受け取ることは軍規の許さない事なので、後日を約してこれを「壽」号と名付けて戦役中乗用し、凱旋後払い下げを受け自分の馬として愛用した。
大将は壽号を明治39年末に種馬として鳥取県赤崎町佐伯友文氏に贈られた。後、大正4年5月同氏より島根県隠岐の島村上寿夫氏に贈られ、海士村渡辺淳三氏方で飼育中大正8年5月27日に絶命した。馬齢23歳でその子馬は20余頭に及んでいる。
副馬「璞」号(あらたまごう)は去勢馬で子馬はなし」とありました。このネタ、水師営でガイドさんがしゃべってましたよ。
ってなことで、ステッセルが送った「壽」号の写真を探してみました。

たぶんこの馬が「壽」号だと思うんだよね。

先頭のが「壽」号だと思う。んでもって乗ってるのが旅順攻略戦でロシアの司令官だったステッセル。上記2枚の写真は去年旅順の旅で購入した「日露戦争」の本から。
/旧乃木邸。
玄関入口左手前立っているのは水師営の棗の樹の孫だそうです。現在水師営にある樹より立派。
水師営会見所(2010年8月5日)の記事水師営は日露戦争における旅順攻略戦の後、乃木将軍とステッセルが会見した所。上の記事に水師営にある棗の写真を掲載してあります。
あちらは何度か枯れては植え直しされてるのでさもあらん…。

旧乃木邸は内部非公開。でも9月12日と13日に限って内観出来ます。
/乃木夫妻自刃の間。
こういうのを見ると、どうにも内部を見たくなるヤジ馬根性でして…。ところで乃木邸は斜面に建っていて半地下構造です。なので正面から見ると平屋建てに見えまずすが、横から見るとこう。

画像中央下に出入り口があります。2階立ての建物に見えるよね。

今週の月曜に予約していたアレルギー科へ行ってきました。
目的は花粉症のお薬。具体的にはもうほとんど空になった目薬と点鼻薬。
先生「いい点鼻薬が出たんですよ。フルナーゼは1日に2回扮霧しないとダメでしたが、1日に1回ですむんです」(すごいでしょう~)
お医者さまにはありがちなセリフです。
私「…安いのってどっちですか?」
先生「ーーー」(呆れてます)
私「1日に1回とかこたわらないんで。朝晩2回でもいいんで。安いのがいいです」
先生「フルナーゼの方が安いと思います」
お医者様にはありがちですが、検査代とかお薬の値段に頓着しない。これはもう別の先生でも経験済みだったので、更に聞いてみた」
私「フルナーゼってジェネリックありませんよね?」
先生「ありますよ」
あるんかいっ!
私「ジェネリックがいいんですけど」
先生「僕の処方はフルナーゼだけど、薬局で聞いてみて」(とっても不機嫌&投げやりだ)
ってな感じ。
ついでに聞いてみた。
私「それはそうと、花粉症の飲み薬のアレグラってあるじゃないですか。あれって降圧剤と一緒に飲むと、1時間もしないうちに気を失う位眠いんですけど」
この2つのお薬を2月末から毎朝毎晩飲み続けてますが、殆ど睡眠導入剤のごとく服用後1時間ほどすると撃沈しちゃいます。朝は外にも数種類の高血圧患者の薬を飲んでて、眠いより苦しいのが先でして、寝込むことはないんですが。夜がイカンです。も。テレビを見てたら気づいたらいつの間にやら番組が変ってたり、知らぬ間に口の中を自分で噛んじゃって痛くて目を覚ましたり…。もう踏んだり蹴ったりなんだすね。
だから先生に訴えてみたのですが…。
先生「降圧剤のことってよくわからない」だってさ。
先生が。しかも私がアレルギー科をそもそも受診したのは、高血圧のお薬と風邪薬の飲み合わせがマズくて街中でブラックアウトして倒れそうになったからだったのにね。んで受診してる脳外科と同じ病院の受付窓口で受診科を相談して紹介された先がアレルギー科だったという経緯があります。
患者はどこで聞けばいいのか?
まあ、杉花粉様はもうすぐ終焉時期を迎えるから、あと少しの我慢だ。
私「もう3月も終るし、ぼちぼちアレルギーのお薬を飲まなくてもいいですよね」
先生「君、ハンノキ類のアレルギーも持ってたよね?」
私「はい。ハンノキ類の方が杉花粉よりレベルが高いんです」
先生「ならまだ飲み続けないとダメだ。ハンノキ類はまだこれから花粉が飛ぶからね。
私「ガ~~~ンっ!!」
ってなやり取りの末、目薬2本と点鼻薬を2本処方されてアレルギー科を後にしました。
なんだかな~。と凹んでしまった…。
思ったんですが、厚生省が目指す医療費の削減つーか圧縮って、患者が云々とか、患者にジェネリック医薬品を選択するのを促すよりも、そもそも医者がジェネリック医薬品を処方するようにしたら効果が上がるの早いと思うのね。患者さんは老齢な人が多いんだし、そんな人にジェネリック医薬品を選べったって無理。しかも老齢な人って控除金額大きくて、自分のお財布から出るお金は少ないからいちいち自分で申告が必要なジェネリック医薬品に変更しないよ。って実は組合とかが控除分の医療代を負担してるんだけど、自分のお財布から出るお金は少ないから老齢な人はおそらく忘れがち。
そのへんどうなんだろ?やっぱ医者、或は病院と製薬会社がウィンウィンだと無理なのかしら??訳わからん。
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広瀬中佐の柔道着(本物)

2011年02月27日 04時06分34秒 | 歴史散歩
下へ続く階段発見!

降りれるんだ~。
順路案内図に従っていくと、「日露戦争のおける武士道」の展示をしてました。
<上記チラシにおいて「日露戦争における武士道」展は3月21日までとなっていますが、好評につき4月10日まで延長するそうです。>
展示室には副砲が備え付けられている。戦艦なので当り前。乃木希典の愛読書なども展示してましたが、時間がなくて流し見てるだけ。ってあれ?
/中央展示室。
日本海戦のパノラマ展示がありました!他にも日露戦争の様々なされこれが展示してあります。み、見たいっ!って今何時?げえっ!!16時15分って、閉艦まであと15分っ!!
時間が全く足りない~~~っ!!ネイビーバーガーがマズかったか…。
心残りな中央展示室を後に、見残した反対側の展示室も覗いてみると!
「旅順口閉塞作戦と広瀬中佐」の部屋でした。
マジでっ!?
去年末のNHKドラマの『坂の上の雲』を見た方ならピンと来ましたね。第2部で壮絶な最後を遂げた広瀬さんです。本木「秋山真之」くんと親交の深かった、ロシアに彼女を残して来た人だっ!
み、みみみみ見たーいっ!!
トップ画像は広瀬中佐の柔道着です。
これはドラマじゃなく、本物の広瀬中佐の遺品です。
この柔道着の由来は、『日露戦争の時に乗り組んでいた戦艦「朝日」に残された遺品です。広瀬中佐は4段の猛者として知られており、戦死後6段を贈られました。
「武勇と思慮とを天下に示し講道館柔道の精神を発揮せり、仍て六段を贈る」』と表示されています。
ついでに広瀬中佐の日露戦争時の略歴も。『第一回旅順閉塞戦において報国丸を。引き続き第二回閉塞作戦で福井丸を指揮し、首尾良く福井丸を港口に沈めて離艦する際、敵弾が命中し戦死されました。』とありました。
 

 
旅順閉塞作戦は有名な作戦です。第一回の2月24日から第三回の5月2日まで、都合3回決行されました。が、これを読むに、作戦の成果はなかったようです。
発想は良かったんだけどね。シロウト考えですが、でっかい戦艦を持ってって捨ててくれば成功したんじゃないかな?小さなボロ船では陸地から集中砲撃を受けて失敗が目に見えてたんじゃないかと。一応船を沈めることに成功してますけど、入口を封鎖出来てなければ作戦成功にならないよね。
ちなみに、去年の夏に旅順を旅した時に、閉塞作戦の現場を遠望を撮影したので、ついでに掲載しますね。旅順観光のハイライト!(2010年8月22日)の記事

画像奥、半島が両側から突き出てます。この間、狭い場所に船を沈め湾内にいろロシア軍が海に出られないように封鎖しようとしたのが旅順閉塞作戦でした。

湾内はこんな感じ。日露戦争当時、湾内にはロシア軍の艦船が数十隻いました。有名なバルチック艦隊のロシア出発当時の目的地もここでした。日本軍はバルチック艦隊が到着する前に、何が何でも旅順攻略を完了しないと日本は戦争に負けて国が滅ぶと感じてました。
ちなみに、日露戦争の舞台旅順は左のカテゴリーの中で「旅順・大連旅行記」で紹介してます。去年7月に旅しました。
また最新フォトチャンネルには「中国、旅順の旅」「古き良き大連」「夢の超特急あじあ号」を掲載中です。良かったら見てやって~。
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寒川神社の境内にあるもの

2011年02月11日 04時36分12秒 | 歴史散歩
既に3度目の訪問となる寒川神社。記事内容が重ならないように注意せねば。
 
境内は「犬の散歩禁止」です。

/一の鳥居。
「この鳥居は、当神社の一の鳥居で、寛政8年才内善次郎の寄進により参道に建立されたもの。安政2年江戸大地震。大正12年関東大震災。二度にわたり倒壊した。高さ1丈1尺(約3、5メートル)柱間1丈(約3メートル)明神鳥居の当時をしのんでここに設置する」
/天皇陛下ご即位20年記念植樹(平成20年12月23日)
木の種類は黒松と柳です。
/天皇皇后両陛下幣饌料御下賜記念植樹(平成22年6月1日)
寒川神社に短い期間に天皇家から木が2回も??この神社と天皇家って関連が深いんですかね?驚きました。
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