あられの日記

散歩先で心に触れたあれこれを記事にしてます。カテゴリーは場所優先。鶴岡八幡宮は寺院・仏閣ではなく「鎌倉」に入ってます。

土方歳三像

2010年06月05日 05時08分47秒 | 歴史散歩
高幡不動は土方歳三の菩提寺なんです。
それゆえに、新選組関連のものがあるのです。いわゆる聖地ですね。
まづ一つ目は一番目立つこれ。
土方歳三像。
銅像の台座にある銘文。
読める?
念の為書きます。
補足は上の本より。
『銅像銘文』
幕末新撰組副長土方歳三義豊は土方義淳の第四子として日野市石田に生まれる。
生来聡明多感にして剣の道を天然理心流近藤邦武先生に学ぶ。
文久3年の幕府の求めに応じて浪士組に参加。将軍家茂公に従って上洛す。
京都守護職松平容保公の預かりとなり、更めて近藤勇を頭に新撰組を結成し、自らは副長として市中見廻り警固につとめ、池田屋事件・禁門の変等に勇名を轟かす。
然し激動の時代こと志と違って賊軍の汚名を被せられ、鳥羽伏見の戦いの後徳川慶喜公に従って、海路江戸に戻り、以後勝沼・宇都宮・会津と転戦し、明治2年5月11日、函館戦争のさなかに戦死す。
多摩の風土に育まれ、義に生き、節に殉じた歳三の35年の生涯は、没後百数十年を経た今も、男の美学として広く語り継がれている。
先に明治9年高幡山第29世賢雅和上は、境内に近藤・土方両雄の碑を建ててその殉節を顕彰するも、更に此の度東京日野ロータリークラブ会員一同は、クラブ創立30周年記念事業として、弁天池々畔に出陣姿の土方歳三像を建立し、その事績を永く後世に伝えんとするものである、
維時 平成7年11月3日 高幡山金剛寺
   中興第33世 祐勝 撰并書
発願 東京日野ロータリークラブ』です。
本にもこぼれ話が載ってましてね、これがなかなか興味深かったです。
 高幡不動尊では、戦前・戦後を通じて、何回か新選組隊士の慰安法要を行って来たが、一般社会では逆賊のイメージが強く、新選組受難の日々が続いていた。
 戦後徐々に見直しの機運が起りつつあったが、殊に司馬遼太郎の「燃えよ剣」が世に出て以来、土方歳三をはじめとする新選組の人気は急上昇をとげた。
 そんな折り、地元有志の間で新選組の局長近藤勇、地元出身の副長土方歳三及び、6番隊隊長井上源三郎の銅像建立の計画が持ち上がり、設計図も上がり、大方の資金の目処がついたので、正式に観光協会に計画を持ち込んだ所、時の市の幹部から「暴力団まがいの人達の像を建てるのは文化都市日野市にふさわしくない」とのお達しがあり、計画は沙汰止みになってしまった。
 その後、日野ロータリークラブが結成30年を記念して、土方歳三像を建立することになり、平成7年秋、現在地に建立されたものである。
以上、本より転載。
確かに、新選組は官軍に倒され、明治政府に対して敵方だったというイメージがある。
でも、これって、明治政府の国威発揚などの国策の一環だったとも思えますね。
時の権力者から出されるものを鵜呑みにすると痛い目に合う。でも、これって権力者には都合がいいので、間違った情報に踊らされてるうちは踊ってる人には実害がないという…。
ミスリードは意図して作られ、時間の流れの中で正しいものとされがちです。
それを史料によって、時間をかけて訂正するのは難しいこと。
なんか、今の年配の政治家先生の中には、多感な幼少時代に時の権力者から洗脳されて思い切り間違った思想を植え付けられて、訂正出来ずに今に至った人もいるようね…。もしくは、間違った事実を植え付けた側の血族だったりして…。
小難しいことは語れない。
でも、ちょっと考えてみて。
自分は新選組ってどういう人達だと思ってます?
…人気はあるんだよね。

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きいて!きいて!
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