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あられの日記

カテゴリーは場所優先。鶴岡八幡宮は寺院・仏閣ではなく「鎌倉」に。一部検索し易さ優先で、花カテゴリーに入れてる場合も。

相撲の地ですから

2012年03月11日 05時07分42秒 | 歴史散歩
トップ画像は旧国技館です。
立て札発見…旧国技館は、天保4年(1833)から回向院で相撲興行が行われていたことから、明治42年(1909)に、東京駅・日本銀行などを設計した辰野金吾が設計を監修、回向院の境内に建設されました。
建設費は二十八万円(現在の価値では75億円程)です。
ドーム製屋根の洋風建築で、収容人数は13000人。開館当時は両国元町常設館という名前でしたが、翌年から国技館という呼び方が定着し、大鉄傘(だいてつさん)と愛称されました。
しかし、東京大空襲まで、三度の火災に見舞われるなど御難続きで、戦後は進駐軍(GHQ)に接収されました。返還後は日大講堂として利用されていましたが、老朽化の為昭和58年(1983)に解体されました。
左手奥の両国シティコアビル中庭の円形は、当時の土俵の位置を示しています。
さて、時刻は…。15時59分ダメだぁ~~。もう間に合わない~~…
相撲博物館は国技館の中にあるのね。開館時間は10:00-16:30までなのね。
回向院からだと…。約10分はかかるかも?そんなん、時間内に着いても見る時間はないわっ。
残念ですが、相撲博物館はまたの機会に致しましょう~。だって走れないもの…。敗因はアレだ。芝公園から汐留駅まで歩いた!&両国で吉良上野介屋敷跡&回向院を探して迷った!ダブルコンポが効いてるわ
ならもう撤収さ。
サクサクと都営大江戸線両国駅を目指します。
ん?なんか発見!
 横綱土俵入り?

 
何げに楽しいなあ~
あ。手形。これ、富岡八幡宮にも似たのあった!朝青龍のがあったかどうかは忘れた!
ああっ!!!両国観光案内所発見!こ、こんな所に…。
ここにあるって知ってたら、最初に聞きに来たよっ凹むぜ~ま。な。江戸下町木札探しも出来たしな。両国で迷ったのは全く無駄ではなかったが…。富岡八幡宮回向院両国国技館と相撲の歴史を舞台を巡って楽しかったしな。
って負け惜しみをこぼしつつ、JR両国駅まで戻って来た。
 
都営地下鉄大江戸線の乗り場はまだ先。江戸東京博物館の裏にある。
「せっかくだから、江戸東京博物館の売店覗く?」「そうね」ってな事で江戸東京400年の歴史と文化を紹介する博物館の売店へ。売店に入るのに入場料はいらない。うっかり江戸の本を冷やかしてしまった~。
「あっこさん、今何時?」
「16時20分」
イカ~~ン!これ以上遅くなったら、通勤客の帰宅ラッシュ時刻とかち合ってしまう~~~。
先を急いでると、なんかでかい石像発見!!!

誰これ!
「徳川家康公鷹狩りの図?」
画像ではでかさが伝わりませんが、アナタが思い浮かべた約3倍の大きさと思って下さい。
つ・疲れた~。
「じゃね~。次は2月3日に節分祭巡りでお会いしましょう~。お疲れ~」とあっこさんとお別れして、帰宅の途に着きました。
が、話はここで終われない。
い…痛い…。

分かりますう~?私、右足の親指にでっかいマメが出来てしまいました。この日どんだけ歩いたのか?うっかり歩数計のカウンターを記録するの忘れてしまいましたが、少なくとも2万歩は超えてたよな?
つーか、寒いからと言って、靴下2枚重ねばきをしてはイカンな。摩擦だかなんだかでマメが出来る…。
どうすっかな~??
ってな事で、帰宅後まずやったのはWEBで「足のまめの治療法」をググることでした…。
もうさぁ~、若くないんだから。詰め込み観光は止めようよ自分。少しは余裕を持って散歩しょうよ。
な~んて反省したのはこの時だけ。2月3日もまたまた詰め込み過ぎな散歩になってしまうのでした…。

長々と1月27日の赤穂浪士散歩を連載しちゃいましたが、終わってみれば今回の散歩は赤穂浪士と大相撲散歩で綺麗にまとまりました。
あっこさん。後日、皇居・東御苑の「松の廊下跡」も訪問すればコンプリートだよ。
…つーか、こんなに時間のかかる記事は今回限りにしたい…。何日かかったか…。私、大学で歴史を専攻してたけどね。日本近代史じゃなかったのよ。ほぼ中国の歴史しか勉強してないの~~。基礎知識が不足してるから、調べるの時間がかかるの~~(魂の叫び)
ふっ。反省…なんて空しい言葉。
ちなみに野望達成の図
切腹最中&吉良まんじゅうそろい踏みです。
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ここ数日、3.11東日本大震災関連の番組が連日放送されている。しょうがないんだけどね。当たり前なんだけどね。画像によってあの日が再現されるのはいかんのね。
どういかんのか?
昨日、あまりに息苦しくて血圧測ったら、数値が…。191:92:112でした
上が191!だったのも大概なんですが、脈拍が112だったのがどうにもこうにも…
例えるなら、常に100メートル走してる状態です。100メートル走ならば、走るのを止めれば心臓のバクバクは元に戻りますが、私の場合、主な原因が日々飲んでる薬の副作用なので薬の作用する時間が終わるまで基本息苦しいのは続きます。
それにしても数値が悪過ぎる~~。
今回のは他に原因があるとしか…。
心当たりで一番に浮かんだのは、東日本大震災の映像を金曜に見すぎた為じゃないかな?あれがストレスになったのか?そう言えば、去年の3月11日は金曜日だったよな…。
ともかく、安静にしてやり過ごすしかないわ~~。もうカンベンして~~。
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赤穂浪士討ち入りの現場

2012年03月07日 06時07分02秒 | 歴史散歩
吉良まんじゅうの和菓子屋さんからすぐに吉良上野介の邸宅跡を発見!
現在は本所松坂町公園です。
よ、ようやく見つけた~。吉良邸は、木札だけじゃありません!有名な赤穂浪士討ち入り事件を彷彿出来るように整備してありました。コレ、『忠臣蔵』ファンが頑張ったんですかねえ。
トップ画像右手にある石碑をアップにしますと赤穂義士遺蹟 吉良邸跡と書かれてます。
立て札発見。忠臣蔵 吉良上屋敷跡
吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしなか)の屋敷は広大で、東西73間、南北35間で、面積は2550坪(約8400平方メートル)だったとされてます。
幕府は呉服橋門内にあった吉良家の屋敷を召し上げ(元禄14年8月19日(1701年9月21日)、代わりにこの本所二ツ目に屋敷を与えています。当時の本所は隅田川の東という立地で江戸の場末・発展途上の雑多な土地柄でした。

吉良上野介が隠居したのは元禄14年(1701)3月14日(現・4月21日)の刃傷事件の数ヶ月後の12月12日(1702年1月9日)です。
現在、吉良邸跡として残されている本所松坂町公園は、当時の86分の1の大きさに過ぎません。
吉良邸見取図発見。
さすがに広いなあ~。でもWIKIによると、召し上げられた呉服橋の屋敷は更に大きかったようです。んでもって、吉良上野介は本所の屋敷には常駐してない。だから、赤穂浪士達は確実に吉良上野介が本所の屋敷にいる日を確定させるのに時間がかかったんですね。討ち入りは1度きり。2度はないから確実な日を待ちました。
討ち入ったのが12月14日(1703年1月30日)。
吉良方の戦死者17名。
『忠臣蔵』で必ず出てくる吉良方の剣客、清水一学の名前も見えます。
3月15日未明、吉良上野介は遂に討ち取られます。
みしるし洗いの井戸(首洗い井戸)
そして赤穂浪士は泉岳寺へ。(当初、近所の回向院へ向かったが、受け入れられなかったため、浅野家の菩提寺へ変更した)

さて、『忠臣蔵』の作中では悪役の吉良上野介ですが、領地の三河では治水事業や新田開拓につとめ名君として地元では慕われて……ナイかもしれんが、かつての吉良の領地の人は吉良上野介が名君であって欲しいと願うのは納得出来る。
こんなんありました。
愛知県吉良町の人は切実のようで(合掌)
公園内には吉良上野介の像が設置してある。
画像の中の家紋が見えますか?
これは吉良上野介の家紋。五三の桐です。(正確には丸に二つ引・五三の桐)
公園内にあるお稲荷様
なぜにここにお稲荷様なのか??分からん…。

さて、次は回向院です。どこにあるのかな~?
ってまた迷った。イカンっ!!迷ってる場合ではないの。ここで迷ってたら、相撲博物館へ行けなくなるぅ~~
ん?またまた木札発見!吉良邸裏門跡
吉良邸の裏門は、赤穂浪士討ち入りの際、大石主税以下24名が門をたたき壊して侵入した所です。う~む。なぜにこの木札だけボロいのか?作り替えが必要な模様。
時刻を確認。15時39分!!!ままままま・まじでぇ~~~。ダメ~~っ!!時間よ止まれぇええええ~~っ!!!は、走れない…。つーか回向院はどこだっ!?   日本史 ブログランキングへ
3月5日に髪を切りました。当日は氷雨でして、寒かったんですけど、3月・7月・11月の第一月曜日の朝9時に髪を切ると決めてるので決行したのだ。確か、去年も3月の第一月曜は雪だった…。んが!翌3月6日、関東は気温がぐんぐん上昇して、汗ばむ陽気となりました。こうなると杉花粉様の出番到来です。や~も~、今年は寒くて梅もまだ見頃になってないのに、杉花粉様は待ちきれないのか威勢よく花粉をお飛ばしになりまして、鼻水が止まりません。ってな事で、今朝からアレルギーのお薬を飲んでます。もちろんアレルギー用の目薬もアレルギー用の点鼻薬も使い始めました。ま。今年は去年に比べすぎ花粉の量が少ないとのことですので、しばらくの辛抱だ。つーか、既にやたら眠いんですけど~。アレルギー薬の副作用だ~。忘れてたぜ。同病の皆様、今年も頑張りましょう~。
コメント (2)
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両国で江戸巡り

2012年03月06日 06時01分58秒 | 歴史散歩
や。江戸巡りする気は全くなかったんですがね。迷いました~
都営地下鉄大江戸線の門前仲町駅から目指した先は、両国駅。到着したら既に15時!!
イカ~~~ンっ!!
とにかく巻きで行く!と。
A4出口から南へ。と。見えて来たのは力士御用達の店です。
トップ画像に胸囲・胴囲100センチ以上、首囲46センチ以上、足のサイズ27センチ以上のみ取り扱いの店とあるのが分かります?
そう、両国といえば国技館。お相撲さんの街なのです。相撲部屋だってそこここにあすハズです。
でも私達には目的地がある。
吉良上野介の屋敷跡&回向院を見つけねば本日のお散歩は完結しません。ついでに国技館内にある相撲博物館へも寄りたいけど、公開時間内に間に合うかどうか既に微妙です。
ってな訳で、さっさと探しましょう~。ンの前に、まず行きたい所がある。それは勝海舟生誕の地。う~む。なんちゃって地図は訳わからん…。YAHOO!の地図に勝海舟生誕の地は書いてありません。この辺りに公園があるハズ~?
少し迷いましたが見つかりました。
勝海舟生誕の地です。

勝海舟は幼名を麟太郎といい、文政6年(1823)1月13日この地、男谷精一郎邸で生まれた。剣は島田虎之助に師事し、蘭学海洋術を学び、万延元年(1860)幕府軍艦咸臨丸艦長として、太平洋を横断した。
慶応4年(1868)3月13日、高輪薩摩邸において、大都督付参謀西郷隆盛と会談し、江戸城の開場を決定して、官軍の江戸進撃を中止させ、江戸百万の庶民を戦渦から救ったことはあまりにも有名な話です。
明治32年(1899)1月11日、赤坂氷川町(港区内)の自邸で死去。享年77歳。墓は洗足池湖畔に建立されている。
勝海舟の写真が説明板に載ってた。去年TBSで「JIN-仁ー」というドラマが放映されました。見ました?あの中に登場する勝海舟は小日向文世さんが演じてました。ドラマを見てる時に気づかなかったんですが、これ…小日向さんにそっくりだよね。つーか逆か?小日向さんが勝海舟に似てるから配役されたのか…。ドラマ見てどんだけの視聴者が気づいたのか…。明治…。写真が残ってる人もいる…。

さて、吉良上野介の屋敷跡はどこだ?
ん??
なんか立ってる?
尺振八の共立学舎跡。
振八は中濱萬次郎らから英語を学び、通訳として遣欧、遣米使節団に随行。帰国後、この地に英学教育の私塾を開いた。
…吉良邸じゃなかった!でも墨田区って何気に歴史に力を入れてるみたい。木札が次々と現れる。
本因坊の屋敷跡
うお~~~っ本因坊と言えば本因坊秀策ですよね。週刊ジャンプで連載された『ヒカルの碁』読んでましたよ~~。萌えまずは木札を読む。
「ここに本因坊屋敷がありました。本因坊家は、囲碁の名門で、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の三人に仕えた日海(1世本因坊算砂)を開祖とする家系で名棋士を輩出してきました。「本因坊」の名は、算砂が住職を務めた寂光寺の塔頭の一つに由来しています。
もともとその拝領地は芝金杉にありましたが、幕府に接収されたため、その代地として寛文7年(1667)、この場所が屋敷となりました。江戸期を通じて、常に囲碁4家元(ほかに安井家・井上家・林家)の筆頭の地位にあり、道策・大和・秀和・秀策などの棋士を生んでいます。特に江戸末期の秀策は、史上最強の棋士として「棋聖」と呼ばれました。
現在は実力制で争われる多くのタイトル戦の先駆けとして名が残っています」
今ではこの立て札しか名残はありませんが、ヒカルの碁ファンならずとも萌えポイントでした。
塩原太助炭屋跡
ここに塩原太助(1743-1816)の炭屋がありました。
太助は、文化年間(1804-1817)の商人で、当時の本所相生町二丁目に炭屋を開きました。炭商人として大成功し、「塩原橋」の名前が近所の堅川に残っている。
前原伊助宅跡
「伊助は赤穂浪士四十七士の一人で、浅野家家臣前原自久の長男として生まれ、延宝4年(1676)に家督を継ぎます。金奉行として勤仕したため、商才に長けてました。
浅野内匠頭の刃傷事件以後は江戸急進派として単独で別行動を取りました。始めは日本橋に住んでいましたが、やがて吉良邸裏門近くの本所相生町2丁目に移り住み、「米屋五兵衛」と称して店を開業し、吉良家の動向を探りました。その後、大石内蔵助と行動をともにしました。
討ち入りの直前には、亡君の刃傷事件から討ち入りまでの経過を漢文体で克明に書き綴った「赤城盟伝」を著しています。」
う~む。赤穂浪士の家まで見つかったのに、なぜに吉良邸がないのか??
こういう時は聞くしかない。うまい具合にお掃除してるおじさん発見。
「すみませ~ん。この辺りに吉良上野介の屋敷があったと思うんですが、どこですか?」
おじさんは度々似た様な質問を受けてる様子。苦笑いで行き方を教えてくれました。

ん?
なんか、気になるお店発見!
吉良まんじゅう&おに平だんごとな?
そりゃあ絶対切腹最中と二つ並べてみたい
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泉岳寺

2012年02月26日 05時34分27秒 | 歴史散歩
訪問日は2011年1月27日。待ち合わせは泉岳寺駅A2出口地上に10時でした。
私の最寄り交通は小田急です。小田急と連繋して東京メトロのお得きっぷがあるので、都営地下鉄はほとんど利用したことがない。ですが、この日同行のあっこさんは京急利用なので、連繋するのは都営地下鉄なのだ。ということで、都営地下鉄の1日きっぷ700円を利用して、都営地下鉄線で巡る江戸の旅第1回を始めます。
まずは泉岳寺赤穂浪士を知ってる人なら泉岳寺を知らない人はいない。
トップ画像は泉岳寺の中門です。総ケヤキ造りで天保7年(1836)に再建。昭和7年に大修理。正面扁額には「萬松山」とあります。
泉岳寺は慶長17年(1612)徳川家康公の創立で、曹洞宗江戸三ケ寺の一つです。開山は門庵宗禅師(今川義元の孫)です。
山門
中門を抜けると山門がある。山門建立は天保3年(1831)に34世大道貞釣和尚が再建。二階部分には十六羅漢が安置されてるそうですが、観光客は階上に上がることは出来ません。1階天井部分に「江戸三龍」の一つ銅彫大蟠龍がはめ込まれている。日本の彫金の元祖関義則の作です。撮影しましたが、失敗しました。ぶれぶれです。

門を裏から見ると、松の木がいい感じにありました。さすが「萬松山」(泉岳寺の山号)
本堂
旧本堂は第二次世界大戦の空襲で焼失。現本堂は昭和28年12月14日に落成。大石内蔵助の守り本尊摩利支天(秘仏)などが納められている。正面に掲げられている「獅子吼」(ししく)とはお釈迦様の説法のこと。
なんてまともに寺院の紹介をしてますが、泉岳寺に訪れる参拝客の9割の人の目的は赤穂浪士事件の面々のお墓でしょう。よってここからは泉岳寺に残る赤穂浪士の所縁のものを紹介します。
大石内蔵助良雄の像
浪曲の宗家・桃中軒雲右衛門の発願で鋳造。大正10年12月14日に寄進除幕。
銅像は手に連判状を持ち東の空(江戸方向)を睨んでいる姿だそうです。
血染めの梅・血染めの石
浅野内匠頭が田村右京太夫邸の庭先で切腹した際に、その血がかかったと伝えられる梅と石です。
田村右京太夫邸は後日の記事で登場するので、ちょいと記憶に留めて置いて下さい。
 
赤穂浪士の面々が、吉良上野介の首級を洗った井戸。主君・浅野内匠頭の墓前に供え報告をしたので「首洗い井戸」と呼ばれている。
画像に「川上音二郎」の名前が見える。これってアノ人ですかね?明治期の日清戦争の頃にオッペケペー節を歌った人。つーかパリ万博で奥さんの貞奴と公演した人。なぜに川上音二郎が泉岳寺でしかも吉良上野介の首洗い井戸なのか??わからん。

この門は浅野家の鉄砲洲上屋敷(現・聖路加病院)の裏門で、明治時代に移築されたものです。
門をくぐると浅野家の墓所があります。そして赤穂浪士の墓も整然と並んでおります。
泉岳寺は元々外神田に徳川家康が創建したのでですが、寛永の大火(1641年)で焼失後、徳川家光の命で、毛利・浅野・朽木・丹波・水谷の5大名により、現在の高輪の地に再建さてたのです。浅野家との付き合いはこの時より。
明日は赤穂浪士のお墓を紹介するね。   歴史 ブログランキングへ


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日蓮の臨終の場所

2012年02月25日 05時35分35秒 | 歴史散歩
池上本門寺の西側の斜面を降りた所に大坊本行寺がある。
本行寺は、日蓮宗の宗祖である日蓮大聖人が入滅、すなわちご臨終された地(ご霊場)です。

日蓮は今から700余年前の弘安5年(1282)9月8日、常陸の国での湯治療養のため、9年間にわたり住み慣れた身延山久遠寺/現在の山梨県巨摩郡身延町)を後にされ、同月18日、武蔵の国池上郷の鎌倉幕府の作事奉行であった池上宗仲公の館に落ち着きました。
日蓮は宗仲の館で療養しつつ弟子や信者に「立正安国論」の講義などをしてましたが、病が重くなり10月8日に6人の弟子に後を託し、10日に形見分け。13日に弟子や信者が法華経を読経する中亡くなりました。享年61歳。
それが現在の大坊本行寺です。

日蓮が入滅した池上家の仏間後に建てられたお堂。
「ご臨終の間」で正座して参拝。現在の建物は当時のものと違うのでしょうが、日蓮は寄りかかって「立正安国論」を講義していた「お寄りかかりの柱」があります。これに触れることが出来ます。
撮影はしてません。感動はぜひその場で味わって下さい。
ちなみに、「ご臨終の間」は昭和11年3月に東京都の史跡指定されているので、記事のカテゴリーは「歴史散歩」に分類してます。

ご臨終の間の裏側でお庭を眺めました。なんか疲れてます~。
お堂を出ると、本堂の前にお会式桜があります。訪問日は2011年11月22日。現在植えてあるのは四季咲き桜か冬桜か?ともあれ、桜の花がちらほら咲いてました。これはね。日蓮が亡くなった旧暦の10月13日(今の11-12月)にもかかわらず、時ならぬ庭先の桜が花を咲かせたと伝えられており、その故事に由来して秋に花をつける桜を植えてあるんでしょね。
御灰骨堂
日蓮入滅後、遺体を荼毘にふした際の遺灰を集め安置。現在のお堂は昭和54年3月、本門寺より大聖人旧御廟所の建物を移築したものです。
ちなみに御灰骨堂の右に見えるのは萬霊供養塔。
さて、散歩はこれにて終了です。池上駅へ向かう道には次から次へ小さなお寺が現れます。これって、本門寺の塔頭なんですかねえ?

道々、雰囲気のいい山門があったので写してみた。撮影時間を確認すると、16時でした。つ、疲れた~。確か、待ち合わせは小田急線豪徳寺駅に9時だったよね。私ら頑張ったよ…。
帰り道、連れは門前の商店街でくず餅を購入~。ふっふっふっ。関東のくず餅は、京阪神でいうくず餅とは別モノなのだよ。おうちに帰って驚いてくれたまへ。
人気ブログランキングへ ちなみに、以前池上本門寺を訪問した時いただいたくず餅の画像はこちら。池上本門寺でグルメ(2009年10月8日)の記事
NHKの朝ドラ「カーネーション」うっかり見出したら面白い。久々に見てます。ヒロインの糸子とほっしゃんの演じる北村の掛け合いが私的にツボにはまってしまいました。
んでね。最近気になるのがすっかり髪をアップにしてる糸子の左のおでこにあるホクロだったりして…。や~、女優さんってホクロ取るよね?や。ドラマ的には加齢した糸子を表すいい味出してるんだけどね。なんつーか、目が糸子のホクロに吸い寄せられてしまうんです。って、コレ私だけ??
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明治生命館見学

2012年02月16日 05時39分16秒 | 歴史散歩
2011年12月11日。小石川後楽園から外苑お掘沿いに靖国神社。北の丸公園を抜けて東御苑へ。そこから日比谷公園まで歩きました。
その時の紅葉散歩の記事はこちら。
小石川後楽園の紅葉(2011年12月15日)の記事
小石川後楽園のモミジは500本(2011年12月16日)の記事
靖国神社の紅葉(2011年12月17日)の記事
靖国神社のイチョウ並木(2011年12月18日)の記事
北の丸公園の紅葉(2011年12月19日)の記事
皇居北の丸公園の紅葉(2011年12月20日)の記事
皇居東御苑の紅葉(2011年12月21日)の記事
皇居外苑&日比谷公園の紅葉(2011年12月22日)の記事
途中で明治安田生命館へ立ち寄りました。明治安田生命館は今は(安田)の名前を挟んでますが、少し前までは明治生命館と言いました。こちらは土日に一般公開されています。
公開日時:土日11時ー17時*ただし12月31日、1月1・2・3日およびビル電気設備定期点検日は休館
入館料:無料
こりゃあもう行くしかないね。ってなことで紅葉散歩の途中に挟んだのです。実はここ、歴史の現場でもあります。何しろ明治生命館はかつてGHQに接収され、太平洋戦争後の日本の行方を決める会議をここで連日開いていたのです。
では中をご案内。

日比谷通り側西玄関から中へ。
まずはラウンジを見学。

吹き抜けのラウンジ。ここでもうヤラレてしまう訪問したのがもう日暮れ間近だったのでガラス屋根のトップライトの外光が分かりにくいんですが、本来は天井からは柔らかな光が降り注いでるハズ。
わくわく気分でエレベーターで2階へ。
階数ボタンがレトロ。こう階数ボタンがね、でっぱってるボタンなのだ。海外のホテルなんかには時々見かけますが、日本じゃあめっきり見なくなったなあ~。あ!思い出した。神奈川県庁のエレベーターは更にレトロだった!!
そんなこんなで2階へ上がると、見学受付があります。「見学希望です」と述べると、見学者用の名札のようなものを貸与されるので、服に取り付けると、「明治生命館ご案内」のしをりをいただけます。
では見学開始!
まず目を奪われるのはコレ。店頭営業室の吹き抜け~。凄~い
天井に丸い花形飾り(ロゼット)があしらってあります。2階の回廊を進み、いただいたしをりの見学順路に従って進むと、まず資料展示室に入ります。
画像撮影に失敗したんですが、上の画像はGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)がアメリカ極東空軍司令部(FEAF)として明治生命館を接収。ここで最高司令官の諮問機関として米・英・中・ソの4カ国代表による対日理事会(ACJ)が設置。昭和21年(1946)4月5日、第一回会議が行われた2階会議室の様子です。
現在はこんな感じ。
ここで連合国軍最高司令官D.マッカーサーが演説を行いました。
画像左奥でマッカーサーは演説したんだつて。会議は何回も行われました。サンフランシスコ講和条約が発効され、GHQが廃止された昭和27年(1952)まで164回も会議は開かれたそうですよ。……日本の未来がここで動いたんです。そう思うとここは歴史の現場なんですね。

会議室は内装もレトロです。   歴史 ブログランキングへ
いつまで冬が続くんじゃ~~~。
…いつだかも似たような事を叫んでますが、寒いものは寒いです。だってねえ、今日なんか雪が舞ってたんですよ。し~か~も~っ!!降水確率0%だったのに、雪っ!!ツー事で、現在進行形で洗濯物は部屋干です。も。やんなっちゃうねえ~。
明日は明日で、最高気温予報が7度なのに、風速10メートルですってよっ!!それって、体感気温が氷点下ってこと??あ~り~え~ん~っ!!明日は3ヶ月に一度の診察日なんだよ。しかもっ!!予約時間は9時なんだよ~。そうでなくともこの所血圧&脈拍が間違ってんじゃないのっ!?って感じに悪いのに~~。
早く春が来て欲しいなあ。だって、今年ってまだ梅が咲いてないんだよ??例年なら既に見頃…。や。品種によったら見頃過ぎな時期なのに。やはり今年は旧暦を採用してた頃、時々あった閏月があるんだわ…。あ~、ぼやきが止まらない~~。
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横浜市金沢区「歴史の道」

2012年01月02日 05時34分55秒 | 歴史散歩
世界遺産登録を目指す称名寺さんを後に、野島公園を目指します。ここに伊藤博文邸があるのです。
その道々、歴史ポイントを巡ります。
薬王寺
薬王寺さんは称名寺の赤門と道を挟んであります。
今は上の画像の如く、どおってことないお寺ですが、ここは源頼朝の弟、源範頼の別邸だった場所です。範頼の位牌もここにある。
細い道を南下して、次のポイントは。
金沢八幡神社です。
金沢文庫の古文書に「称名寺の金堂屋根を葺くために檜皮を八幡宮の前で荷揚げした」と記されてます。神社の前には瀬戸の内海が広がり、八幡河岸と呼ばれる船着き場がありました。」
そうなのです。かつて称名寺から南は陸でなく内海だったのです。だから、金沢文庫駅から称名寺への道は上り坂だったのですね。

金沢八幡神社は、付近の総鎮守として祀られてます。
その次の目的地は伝心寺さんだったのですが、迷った!挙げ句に曲がり角を見つけられず南下を続けてしまい、次の次の目的地に着いてしまった!!
あれ~~??
次の次の目的地だった安立寺さんです。
安立寺さんは日蓮宗の寺でして、下総から鎌倉に向かう日蓮と富木胤継が船中で法論をしたが決着が着かず金沢に着岸して悟明庵に移ってもさらに問答を続けたといいます。この時日蓮の教えに感銘を受けた悟明は、弟子となり安立院日悟と名前を改めて、安立寺を開基したと伝えられます。上の画像の碑は、”船中問答着岸の霊場”とあります。

現在ではこじんまりとしたお寺で、山門をくぐると右半分は全て墓地となってます。とりあえず参拝して山門に戻るとダンナが「あそこに古い建物がある」というので墓地に足を向けたのですが…。
「あれは、隣の龍華寺さんの建物じゃんっ!!」ってことで引き返して道を南下。改めて龍華寺さんへ向かいます。

龍華寺さんは結構大きなお寺でした。

実は境内にはぼたんが沢山あります。春、4月末かな?その頃来るのが望ましい。



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明治学院記念館

2011年11月24日 05時10分59秒 | 歴史散歩
素敵な建物なのに~、建物の全体が写せない~~。
なぜって、建物の手前の芝生広場が立ち入り禁止だからです。
11月3日は東京都文化財公開ウィークです。なので建物内部も公開されてます。
入ろう~ってアレ?何コレ??
アンネのバラ。
アンネって「アンネの日記」のアンネだよね??
なぜにこんな所に??
実はこの苗木はホロコースト記念館よりいただいたんだそうで。世界平和を考え行動する学生が育って欲しいと願って植えられたそうで。ひょろい株だなあ~。…何年前に植えたんだか??もっとお手入れした方がいいんじゃないかな~?
そして正面玄関へ。
いただいたガイドブックによりますと、「小チャペル(礼拝堂)、歴史資料館、事務室を備えるこの建物は、1890年(明治23年)、明治学院の教員であったH.M.ランディス教授によって設計されたといわれている。建設当初は赤煉瓦、瓦葺きの2階建ての建築で、神学部の校舎と図書館として使われていた。明治から現在まで震災等によりその姿を変えながらも学院によって大切に保存され、煉瓦と木造の連繋構造が美しい建物として現存する」とあります。
1階にある礼拝室の中はこんなです。
 
2階への階段はこんな~。

今の建物と違って、手すりがとても低いんです。これはオリジナルから?
2階には卒業生である島崎藤村作詞の校歌が流れ、学院の歴史を紹介する資料が並んでます。こんなモダンな部屋で神学の勉強をしていたんですねっ。うらやましい~~っ!!
あ。ちなみに、今年私のブログでちょくちょく登場している高橋是清さんですが、是清さんも明治学院大学の卒業生です。是清さんはNHKのドラマ「坂の上の雲」では、西田敏行さんが演じていました。
こちらはかつての図書館です。
古の頃、明治の黎明期、キリスト教の書家が並んでたんですかねえ~。現在は大会議室として利用されてます。
ん?
なんかある。

リードオルガンだそうです。
「このオルガンは、アメリカのMason and Hamlin会社製のLiszt Organと言い、1914年当時、明治学院教授A.K.ライシャワー博士の尽力で米国プレスビテリアン•リフォームド両ミッションから学院に贈られたもので、現在我が国においてはほとんど唯一のものではないかと思われる」譜面台に解説文が置いてありました。

この角度だと、煉瓦の1階、木造の2階の連繋構造がよくわかりますね。

帰りに銀杏並木の隙間から撮影しました。   人気ブログランキングへ

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東京のパワースポット清正井

2011年10月24日 04時53分37秒 | 歴史散歩
明治神宮のお庭は有料なんである。しかも500円もする。近所の新宿御苑の入園料が200円だから、入るのはいっつも躊躇ってました。
いつかそのうち。せっかくなので、菖蒲の美しい時期に。とか言ってるうちに、お庭の中にある清正の井戸が超有名になってしまいました~。
清正の井戸が東京でも有数のパワースポットなのは以前から知っていたのですが、なんかテレビで紹介されてから爆裂有名になってしまいました。清正の井戸の画像を携帯電話の待ち受けにすると、運気が上昇する~とかって、人々が押し寄せちゃったんです。だからブームが下火になったらそのうち~と思ってて、そのうち~が今だったんですね。
入り口で尋ねたら、「今日は整理券の配布はしていません」つまり、行列しないで撮影可能ってことですねっ!
ラッキーだっ!!ここは一つ参戦せねばっ!
早速入園。この入園券がなかなかおしゃれ。菱形で菖蒲をデザインしてます。スキャナーが使えればぜひとも紹介したかったんですが…。

6月だとお庭は菖蒲の名所なんですが…。訪問した9月16日はちょうど夏から秋への移り変わる途中でして、セミの声と虫の声が合奏してました。あとね、何が驚いたって、キノコがたくさん生えていたんですよ。ざっくり散策しただけで軽く20種ほどあった!見た事ないキノコもあった!!他にも見た事ない野鳥も何羽か見かけました。明治神宮の森は寺や神社によくある杉並木や松じゃなく、雑木林が主流。だから、自然な生き物があふれてるんですね。
そんなこんなで清正の井戸に到着。なんと!清正の井戸は、お庭の一番奥にあります。わかりやす~く言うと、さっき参拝する前に手を清めた手洗い場の近くです。もしや水源が同じなんですかね?
立て看板によりますと清正の井戸は「この地に下屋敷を構えて居た加藤清正が掘ったと伝えられ、1年中絶ゆることなく湧き出る清水は南池の水源となり、掘り方の巧妙と水質の優秀なことは早くから世に知られています」って書いてありました。合わせて「飲用禁止」とも書かれてました。
行列がないと言っても、数人待ち。

携帯電話を取り出しては、いちいち待ち受け画面の撮影に切り替えたり、撮影したら水に手を浸したり、中には持参したペットボトルに水を詰めたりする人もいて、一人当たりの所要時間はかかります。
かくいう私も、今まで携帯電話で待ち受け画面を撮影したことないんだよねえ~。
おそらくこれでいいハズ…。でも不安だからいつも通りに撮影もしておこう。ついでに清正の井戸に手を浸しておこう。とあれもこれもやっちゃいました(オイオイ)。
帰宅してから検索かけたら、清正の井戸は運気上昇のパワースポットのようです。
ってなことで、あれこれ撮影した中に無事待ち受け画像もあったので、帰宅してから携帯電話の取り扱い説明書に従い、清正の井戸の画像を私の携帯電話の待ち受け画像に切り替える事が出来ました。
やり遂げた感を味わったらお腹がすいてきた。お庭の隅にある東屋でいつものアンパンと麦茶でお昼ご飯。なぜかアンパンを食べている間じゅう、赤トンボが側に止まっていました。もう赤トンボの季節なんだ~。気温は30度超えてても季節は移り変わってるのねっ。
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お祭りの御神輿

2011年10月07日 06時02分01秒 | 歴史散歩
御神輿です。代々木でインドフェスティバルを見て歩き、時間となったので、NHKの方へ歩いて行ったらば、御神輿があった!
…どこの神社でお祭りがあるのか?
ともあれ、御神輿を観察するいい機会ので、じっくり見て回る。

う~む。うちの田舎のお祭りは御神輿じゃなくてちょうさって言うのよね。っと言っても、ちょうさをイメージ出来る人はあんまりいないと思うけど。人が乗って、太鼓を叩く。んでもって、ちょうさについてる綱を大人数で引いて移動させるんだよな。てっぺんにはとんぼと呼んでいるでっかりリボン状のものが4隅についているのだ。
京都の祇園祭の山車や川越のお祭りのものとも違うんだよね。

ちなみに、神楽とかじゃなくて、太鼓と人の合いの手で町内を練り歩くのだ。

こちらのお祭りとはだいぶん違うんだけど、ちょうさをお店出来ないくて残念です。「どっちのケンミンショー」でやってくれないかしら?


あれこれ画像をiPhotoで加工してみた!

Macを壊して、何もかも消えてしまいました。新しいMac Book Airを購入して、たちまち不自由になったのが、ブックマークが全て消えたこと!
ブックマークに追加する時に、適当に省略して登録して使っていたりしたので、新しく登録し直そうとしてもちゃんとしたWEB名が思い出せない。ど~にも困ってしまう。
最も困ったのが、「コミックスとラノベの新刊情報」のページだ。確か、毎月20日に更新されてね。アニメイトかなんかだった気もするが、新刊情報だけ利用していたから、どこのWEBサイトのものだったかも謎!新刊情報がわからない~。どなたか、心当たりのあるサイトご存知ありませんか~…。不便だ。
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時の鐘の音

2011年07月07日 04時07分40秒 | 歴史散歩
川越まつり会館を後に蔵造り資料館に向かってると、観光案内所を発見!何かいい感じのチラシはないかと物色してると、川越の観光名所の判子がいくつもありました。
当然ゲット!です。と。何やら聞こえてきた??あれは何だ??
すると観光案内所のおじさんが「3時だからね。時の鐘の音だよ」だって!
ええっ!?
あれって、音出るの?つーか現役の時計だったの??
慌てて観光案内所のおじさんに時の鐘の場所を聞いて速攻移動です。出来たら近くで音が聞きたいものね。

あ。あれっ!!時の鐘は近かった!でも私のように音に引かれて観光客も集まってきた。
あれ?

まさか時の鐘の下が通り抜け出来る構造だったとはっ!!一本取られた気分。参りました!
んでもって、時の鐘の下をくぐり抜けた先にあったのは、薬師堂でした。トップ画像は薬師堂の御堂を背に撮影してます。時刻的に軽く逆光だったのが残念。
んでね。私はここで大失敗をしでかしてしまいました!!
マイフェイバリットコンパクトカメラを石畳に落としてしまったのです。
こう…。ツルりって、手からこぼれて行っちゃったのだ…。マジか~~っ!!
おそるおそるカメラを拾い上げる。「壊れてないだろうな」とつぶやきつつ操作する。げげっ!!蓋が閉まらない~~っ!!!
やっちゃいました…。
でもでも、たぶんレンズは無事。数枚写してみたけど、シャッターも無事。音も変らない。
…たぶんたぶん最悪な壊れ方じゃないから…大丈夫じゃないかな??観光の神様ありがとうっ!神社仏閣を訪れたら、礼儀でお参りは欠かさないんですけど。ラッキーなことがあると、これからもお参りは継続しよう!と思うのよ。閑話休題…。

気持ちを落ち着けようと、周囲を撮影しました。

時の鐘 約400年前から、城下町に時を知らせてきた川越のシンボルです。現在のものは4代目。先程訪問した市立博物館の川越城下のジオラマにも時の鐘があった!
櫓の高さは奈良の大仏と同じだそうです。今も1日4回。午前6時・正午・午後3時・午後6時に時を知らせる鐘の音が鳴らしてます。
誰が鐘をついてるんだろう?と降りてくるのを待ってたのですが、気配がない。と。どこかのおじさんが、今は自動だよ。って。やっぱりな。さっき鐘が動いてるのは見えたんだけど、ついてる人影は確認出来なかったんだもん。
時の鐘は平成8年に環境省主催の「残したい日本の音風景百選」に選ばれたそうです。

さて。蔵造り資料館に戻らないと!
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川越の喜多院

2011年06月27日 04時47分31秒 | 歴史散歩
喜多院の五百羅漢を観覧した後、境内の建物の見学を。
トップ画像は慈恵堂(本堂)です。
お寺が最高に綺麗にお化粧されるのはお正月。建物は大概1月半ばまで綺麗な布を纏ってたり、普段寺院仏閣の奥にしまわれている寺宝が公開されてるのでこの時期はぜひ寺院仏閣へお参りに行く事をお薦めします。
んで。
喜多院さんは、年間通じでドレスアップしてるのですね。観光客はとっても嬉しいです。萌えエネルギーがいや増します。



ね。布を巻いてあるだけでフォトジェニック!色数が増えると嬉しいなあ。へっぽこカメラ好きの画像でも雰囲気出て嬉しいです。

仙波東照宮から徒歩で喜多院を目指すとまずこの鐘楼門が目に入る。画像が鐘楼の正面からの画像。

こちらが裏側。正面は龍の彫刻ですが、裏は鷹なんですね。

そして慈眼堂。…慈眼堂の画像を撮りそびりました。あ~れ~?
慈眼堂は天海僧正を祀る御堂です。
んで、画像は慈眼堂の裏にあった天海僧正の墓碑とかです。この辺り色々あるのですが、敷地の中へ入れませんでした。残念です。

多宝塔。喜多院の中で新しい建造物。そもそもは寛永16年(1639)に建立されましたが、後に移築や復元された。

最後にビートたけし似の像は、天海僧正です。
…天海さんってさ~、ミステリー時代小説とかだと、大概妖術使いの怪僧って感じに出てくるんだよな…。なんかラスボスって感じでさ。だから名前だけは随分前から知ってたんだよね。…川越で会えるとは思いませんでした!嬉しい驚きでした。
さて、このビートたけし似の天海僧正の像が立ってるのは、喜多院で一番古くから現存してる山門の手前です。江戸の寛永15年(1638)の大火で山門だけ焼け残ったのね。なのですが、画像を撮り漏らしてしまいました…。喜多院さんは見所盛沢山で、帰宅後見漏らした所をいくつか発見して落ち込みましたよ。例えば川越藩主松平大和守家廟所とかどろぼうばしとか大黒天とかとかとか。あ~あ、やれやれ。
ちなみに、川越藩主松平家のお墓って、平林寺にもあります。平林寺の史跡(2009年11月25日)の記事
でもねっ。喜多院さんにはお隣の仙波東照宮に到着したのが9時54分だったから、つまり天海僧正の画像を撮った11時21分まで1時間半も滞在してたんだよ~~。
喜多院さんは川越観光のメインの1つです。訪問される際は観光時間に余裕を持って行かれる事をお薦めします。
さて、次はどこだっけ?小田急で配ってる地図を出してみる。
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喜多院の五百羅漢2

2011年06月26日 04時45分35秒 | 歴史散歩
ってなことで、昨日に引き続き喜多院の五百羅漢さんの画像を紹介します。
今日も私の好みで538体の石像からピックアップしてみました!

骨董店の店先で、店主が客に「お宅のご本尊にどうだい?」って勧めてるようだ。

演奏会なのか?僧侶のお勤め中なのか?

やっぱりモデルは飼い猫?でもモチーフは龍玉をパチッた凡夫に龍神様が取り返しに来た現場だね。

木鯉を叩いて寺院の僧侶達に時刻を知らせるの図。

悲しいことでもあったのか?それとも顔を洗ってるのか?

謎の生き物…。

謎の生き物2。たぶん貘だと思う。

印を結んで修行中。奥に子牛がっ。

てな事で、大量の画像をご覧いただきましてお疲れさまでした。
喜多院の五百羅漢さんは喜多院の書院・庫裡・客殿の観覧券を持ってると見ることが出来ます。半券を五百羅漢前にある売店の売り子さんに提示して下さい。最近はこちらの羅漢さんがガイドブックやチラシなどに紹介されて有名になってるんだって。旅の訪問地としては最適だと思う。
明日は忘れてたけど、喜多院には他にも建築物があるのね。それをいってみよう!

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喜多院の五百羅漢

2011年06月25日 04時17分15秒 | 歴史散歩
喜多院には五百羅漢がある。
天明2年(1782)から文政8年(1825)まで約50年をかけて造られたもの。全部で538体ある。モデルは近在の一般庶民かな?石工は何人かいたみたい。羅漢さんに石工の個性が反映されてますね。
ってなことで、538体もある石像から、私の独断と偏見。更に好みも反影させて、羅漢さん画像を二日に渡ってお届けします!ええ。ご想像通り、私って結構石像好き。
ではスタート!

相談事は詰め将棋の次の一手か!?



先生のようだ…。

釈迦如来、脇侍の文殊の両普賢菩薩だと思う。

菩薩をアップで撮影してみる。

今年は兎年ですから。

ひょうたんの用途は?

獅子と龍のモデルはご隠居の飼い猫かもね?

明日も羅漢さん
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喜多院の紅葉山庭園

2011年06月24日 04時34分09秒 | 歴史散歩
家光誕生の間は元々江戸城の紅葉山にあった別殿を、喜多院に移築したものです。
喜多院には紅葉山庭園という名前の庭園があるのね。ということは…。江戸城から庭園は持ってこれなかっただろうから、同じ感じに再現したのでしょうか?これは私の想像です。
訪れたのは5月14日なので、紅葉が盛沢山の庭かもしれませんが、今見えるのは新緑。

画像は庫裡・客殿・書院と喜多院の本殿の慈恵堂を結ぶ回廊です。
回廊はこんな感じ。
こちらから紅葉山庭園が見えます。そこに3つの大岩があります。

3つの岩には名前がありまして、徳川・豊臣・織田と言うのですって!どれがどれだかは謎なのですが…。
いつ頃誰がこじつけたんですかね?

慈恵堂も撮影禁止。

こちらの本堂の天井にも絵が。でも絵柄は家紋です。意図が気になるなあ…。
でも豪華で金ぴかの天蓋の真下に座ってお参りが出来る機会はなかなかありませんので、400円支払って観覧した方は、ぜひ慈恵堂も忘れずに立寄って下さい。ちなみに、庫裡で観覧券を手に入れないと、慈恵堂の建物内に入れません。

回廊から慈恵堂(本堂)を撮影しました。
私、うっかり撮影しそびれてしまったのですが、上の画像から90度首を左に振った所に、天海僧正お手植えの槙があったんですよ。後で気づいた…。
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