ALQUIT DAYS

The Great End of Life is not Knowledge but Action.

まともでないか

2013年10月07日 | ノンジャンル
人間、国や人種の違いはともかく、言語や文化、思想の
違いもともかく、基本的には、まともか、まともでないかに
大きく分かれる。

他人を助けるために自らの命をかける者。
自らのために他人を傷つけ、命を奪う者。

どちらも同じ人間であり、誰しもがどちらの面も
併せ持つ。

どちら側の人間かという区別の仕方は、人間自体を
誤って見ている。ただ、その人の基底部がどちら側に
主としてあるかの違いである。

それが、まともであるか、まともでないかということだ。
無論、まともなものが、まともでなくなる場合もあれば、
まともでないものが、まともになる場合もある。

ひとたび生を受ければ、死は必定である。
その生は、少なからず他の生命の犠牲の上に成り立つ。
それを当然とするのか、感謝とするのか。

生のためでなく、他の生命を奪うのは人間だけである。
自身の生命が、他の生き物によって奪われることの
なくなった近代だからこそ、他の生命に対して
より敬虔でなければならない。

人の命の尊さを啓蒙する場が無数にありながら、
その意識がこれほど薄い時代もかつてないのではないか。

最近のニュースを見ていて、結局、まともか、
まともでないかの割合は昔と変わらず、むしろ
まともでない方が増えているのではないかとさえ思える。

死が必定なら、せめて自身の生を輝かせたい。
それは、まともに生きることであり、
まともに死ぬことでもある。

まともということは、生き方であって、死に様と
いうことではない。
どんな形の死を迎えようと、やはり大切なのは
それまでの生き様なのだと思う。