ALQUIT DAYS

The Great End of Life is not Knowledge but Action.

暁の閃光

2009年06月27日 | ノンジャンル
暗い闇の中で悶え苦しんでいた。

肉体的に鎮めがたい苦痛に、無駄とは知りながら
身をよじるような思いを、この一週間ほど独り
心に抱えてきた。

未曽有の不況下での株主総会、組織の再編成、経費削減、
リストラ、解雇、賞与カット、 給与カット。
何よりも自身が経営の中枢から事実上外れたことは
大きなショックであった。

全ての逆境を何とか前向きに捉えながら
進んで行くしかないとはわかっていても、息も苦しく、
食欲は減退し、言い知れぬ恐怖感に苛まれてすべて悪い方へ、
悪い方へと 思考が向いていく。

いくら考えても堂々巡りなことがわかっていても、
まるで強迫観念に憑かれたように心が底も無く沈み、
肉体も今までの疲れが噴き出したかのごとく動かない。

苦しいのは生きているから。
楽になりたいのは生きていたいから。
ならば生きるしかないではないか。

4年振りに、いつ終わるともしれない離脱症状との戦いを
思い出していた。
だが、あの時は精神の昂揚があって、断じて飲まない、
勝って見せるという気魂が充実していたかに思えるが、
今回はその気魂がまず折れてしまっていた。

己の脆さ、無力さ、小ささを、情けなさ過ぎて
消えてしまいたくなるほどに感じた。

あの時とひとつだけ同じ事がある。
何もかも一切を投げ打ってしまいたくなるのと変わらぬ微妙な
バランスで、家族を何としても守るという意志があった
ということである。 

その一点で心を支えた時、苦しみも、辛さも、悲しさも、
そのまま受け容れて、自分を作らず、繕わず、飾らず、
ありのまま、情けないままで、それでも一歩を踏み出して
いく腹が決まった。

底知れぬ深い闇の中にいれば、人は光を求めてやまないが、
求めることは生きることであり、闇の中であろうと
進む事である。進まざるものに光は射さない。

この苦しみは、飲まないで居続けているが故の
苦しみであるだろう。
昔なら、飲まなければ到底耐えられなかったに違いない。
だからこそ飲んでいた時もあったろう。

今は、飲まないでいるからこそ、ありのままを認めて受け容れ、
その地点から何度でも 立ち上がって進んで行ける、
つまりは生きていけるのである。