ALQUIT DAYS

The Great End of Life is not Knowledge but Action.

自分の所為

2010年10月27日 | ノンジャンル
米国は訴訟の国であるとしばしば揶揄されるが、多民族により
形成された国家においては、合理的且つ客観的な判断が常に
必要とされる。

古代ならともかく、同系統の民族を持って統一され、
皇紀2670年となる日本とはその感覚は隔絶している。

とはいえ、あまりにも理不尽な訴訟例が多いのも事実である。
ネコを洗濯機で洗って、死んだからと洗濯機メーカーを訴え、
洗ったネコを乾かそうと電子レンジでチンして、これまた
死んだからとそのメーカーを訴える。

有名なハンバーガー製造販売会社を相手取った訴訟では、
自分が肥って、それに伴う様々な病気に罹ったのは、
そのハンバーガーの所為であり、そのハンバーガーを
製造販売している会社の所為だと・・・。

我々にとっては笑い話ではない。
家族ならともかく、本人が、この世にお酒さえなかったらと
話をするのを聞くことも多い。

自分が病気になったのは、お酒の所為。
そのお酒を造り、コマーシャルを流して販売するメーカーが
悪いと考える人も少なくない。

ハンバーガーの訴訟と何ら変わりない。

依存症者にとってお酒は、覚醒剤などのドラッグと
同じようなものだが、一般の人にとっては嗜好品である。

アルコールという薬物を含む以上、その用法、用量には
注意が必要であるから、未成年には禁止されている。
無論、脳の著しい成長時期に、アルコールによる麻痺を
与えることは当然ながら好ましくないからでもある。

いくら依存症者が増え、その予備軍が増えたとしても、
現実は如実な社会問題にまで至っていない。
適度にお酒を楽しんで、まともな社会生活をしている
人達の方が圧倒的に多いのである。

楽しい食事の為に包丁で調理をするのが普通であるのに、
その包丁で人を刺せば、凄惨な地獄を現出する。
その包丁自体や、包丁を製造したメーカーに罪があるとは
誰も思わない。

我々は特に、誰かや何か自分の外なるものの所為にしたがる。
全ては自分の所為であると、客観的に自分と向き合うことは、
自分を責めるなどという甘い陶酔ではない。

自分の所為でないことは、自分ではどうしようもない。
だが、自分の所為であるなら、それと向き合い、
新たに進んで行くほかはないのである。