ALQUIT DAYS

The Great End of Life is not Knowledge but Action.

死に向かう病気

2007年12月19日 | ノンジャンル
院長先生の話を聞いて、帰ってきた後、つくづくこの病気は深く
死へと結びつくものである事を再認識した。

今の我々にとっては、飲むことは死を意味する。
失敗を繰り返せば、それだけ死への道が短くなるだけである。
確か、通院しだした頃に見かけた人たちが、1ヶ月、3ヶ月の
表彰を受けていた。
つまり、最近になってスリップしたという事であろう。

人間、誰しも失敗はある。失敗に学び、より良き未来に向けて
生きるのであれば良い。
だが、許されない失敗というものもある。
生きることを望むなら、スリップは私には許されない。

死を覚悟してのスリップなら、如何ともし難い。
それはその人の人生であり、その人の自由なのである。
しかし、スリップをして死に至るケースは良く聞くが、死を覚悟して
スリップしたという話を聞いたことが無い。

今年最後の例会としては、あまり験の良い話ではなかったが、
自身の原点を改めて確認する機会となったことはありがたい。

あの時、飲酒を止めた途端に出た幻覚と幻聴。脅したり、
なだめたり、すかしたりしながら、何とかお酒を
飲ませようとしていた。
頑として戦うと決意した理性と意識に勝てないと判断するや、
持久戦へと持ち込んでいった。

自身の狂気を、狂気としてありのまま見ていた理性も徐々に
疲れ果て、その狂気に支配されるくらいなら、いっそ共々に
消してしまおうかと考えた瞬間もあった。
そして、その隙につけ込まれるように、現実と幻覚の判別が
つかない瞬間を迎える。
あの瞬間は半分以上無意識であったように思える。
紙一重のところで、転落死を逃れた。

周りから見れば、飲酒で頭がおかしくなった挙句の
自殺であったろう。
そして、しきりに聴こえていた「こっちの世界においで」
という言葉。
それは、理性も意識も埋没し、狂気に完全に支配された、
別世界の事であったろう。
気が狂った状態になれば、欲するままに、何をどうしても飲酒を
続け、結果としては死に至っていたに違いない。
いずれの場合においても、至るところは死という一定である。

自身が狂い死にする事はある面、自業自得であり、
あきらめもつく。
いや、あきらめというより、訳の分からない状態で死んで
いくのであるから、自虐的にいえば、まだ幸せといったところか。

自分の事はそれで良い。だが、そうなっていれば、
子供たちに対し、どれほどの深い傷を負わせていたか知れない。
自分の父親が、お酒で頭がおかしくなって自殺した。
あるいは、気が狂って、狂い死にした。そんな消えない傷を
背負いながら、それぞれの人生を生きていかねばならない。
自身の死よりも、この傷を負わせる方がよほど罪である。

理性のかけらのおかげで、かろうじて狂気の完全支配から逃れ、
いずれの死からも確かに何かに守られて、今の自分がある。
この原点をこれから何年、何十年経とうと、忘れる事は
許されない。

自分の狂気をまざまざと見つめた体験を持つ以上、これから
生きる上で直面する様々な現実に対しても、目をそらせることなく
直視していける目を持ったはずである。

厳しく言えば、断酒は命を永らえさせたという事であり、
スリップは、進んで死を受け入れるに等しい。

そして、その上で目に見える真実は、人の命は、その人だけの
ものではないということなのである。

現実に死に向かった人に対しては、どうしてその一歩を
踏み出してしまう前に、今を生きている自分に何が求められて
いるかを考えられなかったのかという事が口惜しい気がする。

一年の締め括りに、少し重い話ではあるが、しっかりと自身の中に
刻み直しておくべきことであろう。そうして、日々飲まない一日を
積み重ねるのと同じように、一年一年をしっかりと仕切り直して
積み重ねていきたいものである。