三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

土井隆義『人間失格?』1

2012年01月29日 | 厳罰化

知人に誘われて、炭谷茂氏の「刑余者と共にくらせる街づくりと社会福祉の役割」という、ソーシャル・インクルージョンについての講演を聴いた。

インクルージョンとは「包括」「包含」という意味。
刑務所に入ったことのある刑余者たちを社会から隔離したり、排除したりするのではなく、社会の中で共に助け合って生きていこうという考えが、ソーシャル・インクルージョンということらしい。

刑務所に入った人はいつか社会に戻ってくる。

ところが出所しても、家がない、金がない、仕事がない。
福祉の援助を受けることを知らないので路頭に迷い、再犯して刑務所へ。
そういう人たちが人間らしい生活をするために、社会の中で受け入れる仕組みを作らないといけない。

質疑応答では、精神病院でソーシャル・ワーカーをしていた人が精神病者も同じ状況にあるという感想を述べていた。

家族から見放された患者は、アパートを探しても精神病だとわかると断られるし、就職も難しい。

ソーシャル・インクルージョンの考えは、もともとイタリアの精神障害者が精神病院から出て、仕事に就こうとした中から生まれているそうだ。

イタリア映画のジュリオ・マンフレドニア『人生、ここにあり!』は、精神病院に入院している患者たちが木工の会社を作って自立していく話で、炭谷茂氏の話を聞き、これがソーシャルファームなのかと気づいた。
ソーシャル・ファームとは「通常の労働市場では就労の機会を得ることの困難な者に対して、通常のビジネス手法を基本にして、仕事の場を提供するビジネス」である。

生活保護を受ければ食べていくことはできる。
しかし人は、生活保護でお金をもらってご飯を食べるだけでは物足りない。
面白くないことがあれば、酒を飲んだりパチンコしたりということになる。
自分は必要とされている存在だ思うことができれば、誇りを持って生きていくができる。
でもまあ、物事、そう簡単にはいかないわけで、『人生、ここにあり!』のように社会に出て、ほいほいと順調にいくとは限らないのが現実らしい。


社会が刑余者や障害者を排除するのではなく、寛容に受け入れていくことは本人のためだけでなく、結局は自分のためにもなり、社会のためにもなる。
土井隆義『人間失格?―「罪」を犯した少年と社会をつなぐ』は少年犯罪を取り上げた本だが、同じ趣旨のことが主張されている。

かつての非行少年は「社会に対する反旗」という「反社会的な意味」を持っていたが、今はそれが失われているそうだ。
最近の非行少年の特徴は、性格が幼い、何とも頼りないということ。
少年犯罪も、凶悪化ではなく稚拙化、低年齢化ではなく高年齢化、集団化というより脱集団化という傾向が見られる。
「今日の凶悪犯罪は、まるで非行少年らしからぬ、むしろ未熟な少年による衝動的な犯行の色彩が強くなっているといえるのです」

家庭裁判所調査官の話「凶悪だと新聞で騒がれた事件を起こした子なんですが、鑑別所で会ってみると全然しゃべらない。しゃべりたくないというんじゃなくて、しゃべれないんですね。とにかく自分からは何も話さなくて、何を訊いてもウン、ウンというような反応しかない。……本当に、信じられないくらい未熟なんですよ」

光市事件でも、被告は鑑別所の鑑定では精神年齢は4~5歳である。

「そ
れにもかかわらず、世の中では、犯罪に関わった少年たちをモンスター視するかのような言論が跋扈し、一般の人びとの体感治安が逆に悪化しているのはなぜでしょうか」と土井隆義氏は問題提起している。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする