三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

大澤孝征『犯罪少年』

2007年07月06日 | 厳罰化

光市事件の差し戻し審があったが、大澤孝征弁護士は「みのもんたの朝ズバ!」で「(同じ)弁護士として恥ずかしい」とコメントした。
それで大澤孝征『犯罪少年』(2000年発行)を読んでみた。

副題が「凶悪な10代後半、驚愕の10代前半」というんだからすごい。
もっとも十代前半と後半の犯罪の違いをこの本では説明してはいないが。

最初はまともなことを書いている。

殺人者に対して、自分とは無関係だと決め込んでしまうと、理解の糸口を失ってしまう。それに、そのような人が本当に自分とは無関係であるといえるかどうか。心のどこかに闇の部分のない人間など、いないのではないだろうか。
善悪の大小、殺意の濃い薄い、あるいは実行するかしないかは別にして、そういう気持ちが自分の中にもあるということを、人間も社会も、正面から見つめる必要があるのではないだろうか。(略)
人間には悪の部分、影の部分、いけないとされている部分があり、善の部分、光の部分、よいとされている部分があり、その両者が揃ってはじめてちゃんとする人間、正常な人間たりうるのではないだろか。


「人を殺す経験をしたかった」というので女性を殺した豊川市の17歳についてもそう。

この事件の異常さのみを強調し、加害者の少年は精神を病んでいると決めつけてよいものだろうか。その心情を深く探ることもなく、自分には理解できないという「排除の論理」だけで済ませることは、間違っていないだろうか。

ところが、手のひらを返してこんなアホなことを書く。

彼の中には、こういう犯罪を犯すのは今しかないという打算もあったのではないだろうか。なぜならば、今の少年法では、18歳を超えると、殺人罪に対して、場合によっては死刑判決もありうるからだ。

そんなのは大澤孝征の思い込みにすぎないじゃないか。

そして、こんなトンデモ発言。

少年犯罪が、教育水準の高い家庭の中でも、いわゆる人権派の物わかりのいい父親を持つ少年に多いというのも、偶然ではないだろう。

信じられないくらいの偏見だが、成育環境が悪い子供が多いことを知らないのか。

「今の刑罰は、犯罪の内容に比べて軽すぎる」
「諸外国に対し、日本の量刑はあまりにも軽い」
こういう誤解はよく耳にするが、きちんと調べて書いてほしい。

大澤孝征の死刑肯定論。

人の命を奪った者は、本来自分の死をもって贖うことから始めなければいけない。検討は死刑から始めてしかるべきなのである。

こういう考えの弁護士に刑事事件の弁護を依頼する人がいるのだろうか。

オウム真理教の井上嘉浩被告は地裁で無期懲役の判決について。

社会全体としての制裁装置として、また被害者に代わってリベンジ(報復)をする装置として、そして一種の見せしめ的な意味(専門用語で一般予防という)においても、一審の判決は「死刑」であるべきだった。

「見せしめ」とはね。

大澤弁護士は凶悪な少年犯罪が急激に増えていると指摘している。
しかし、少年犯罪の激増、凶悪化、低年齢化というのは間違い。
他にもウソが多い。

この刑(無期懲役)の実際の執行がどのようになっているかというと、ほとんどの場合、短い年数の刑期ですんでしまっているのが現状。

『犯罪少年』が書かれた2000年の仮釈放者の平均在所期間は20年以上である。
仮釈放が認められず50年以上在所している人もいるし、獄死する人もいる。
ちょっと調べればわかることなのにウソを書く。

大澤弁護士は少年犯罪は「戦後平等主義の負の遺産」だと言い切り、教育論に話は展開していく。
「少年犯罪が増えて生きている背景に、悪しき平等主義がある」
「戦後教育にも、かなりの問題があったのではないだろか」
「明治・大正時代には、日本人はもっと背筋がピンとしていた。武士の精神のようなものがあった」

武士道か。
江戸時代、武士は1割ぐらいで、ほとんどが農民だったのに、どうして武士道が日本精神なのか。
そもそも明治、大正に生まれてもいないのに、見て来たようなウソを言う。

そのあと、どうして検事から弁護士へ転身したのか、テレビ出演をしまして…、という自慢話で終わる。
そういう本でした。

コメント (48)
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