井上順孝『若者と現代宗教』は若者が宗教をどう考えているかを分析している。
オウム真理教の地下鉄サリン事件が1995年、『若者と現代宗教』の出版は1999年。
「日本のお寺は風景でしかなかった」という、オウム真理教をやめた人の言葉は仏教関係者にショックを与えた。
井上順孝が「ハワイの若い日系人の間では神社と寺院の区別がつけられない」という話を講義でしたら、一人の学生が「神社とお寺って違うのですか」と質問したそうだ。
こういう質問を発する学生は決して少数派ではなく、まさに「お寺は風景」である。
とはいっても、科学が発達しても宗教は人間に必要だと答える学生は半数で、神・仏・霊魂の存在を信じる学生は半数強。
若者は教団宗教の現状にかなり不信を抱いているが、宗教性そのものへの関心はそれほど弱まっていない。
では、どういう宗教に関心が持たれているのか。
刺激に満ちた宗教に接したいと願う若者は、あまり既成宗教には足を向けない。
新宗教のほうがずっと生命力を感じさせる。
しかし、もともと新宗教は民俗信仰と連続面を多くもつし、日本独自の文化的社会的条件の中で形成されたものである。
新宗教も組織化が進行すると、儀礼化や教義の硬直化が生じてくる。
組織化、硬直化が起きにくいのがオカルトと戯れる世界。
組織の束縛から自由であり、教義にこだわる必要はなく、自分の感性に率直になれる場である。
ということで、若者はオカルトにひかれるわけだ。
オカルトがいけないのなら、祈祷やお祓いとオカルトはどう違うのかと突っ込まれたら、既成教団はどう答えるのだろうか。
伝統的というか、社会が認知しているかどうかの違いしかないのかもしれない。
井上順孝は宗教が相対化・情報化・グローバル化していると言う。
相対化ということの背景には、当然自由競争ということが考えられる。
これからの時代は「うちは昔から○○宗だ」とか「××寺の檀家だ」とは言わなくなるだろう。
三世代同居や地域共同体によって伝えられていた宗教的伝統に関する基本的な作法を、現在の若い世代は習得する機会を失いつつある。
これは「なぜオウム真理教に入信したか」の答えの一つである。
グローバル化によって、日本の新宗教は韓国、台湾、マレーシア、タイ、シンガポールなどの国において信者を増やしている。
ところが、グローバル化は伝統を破壊し、宗教の文化的コントロールを乱す方向に作用する。
宗教の相対化、情報化、グローバル化によって生まれた「伝統的倫理規範や暗黙の宗教的規範にあまりとらわれない」宗教を、ハイパー・トラディショナルな宗教と井上順孝は名づける。
最近は、それぞれの地域における伝統的宗教との連続性が希薄で、しかも民族・国家の枠が当初からあまり感じられないような運動があらわれ始めてきた。
ラジニーシ、サイエントロジー、オウム真理教などのニューエイジ系の宗教で、カルトとして批判されている。
そしてまた、新しい運動は、「宗教」の境界線を、より曖昧にしていくに違いない。
その反動からか、伝統回帰も見られる。
その動きの一つがファンダメンタリズム(根本主義、原理主義)への傾斜である。
ファンダメンタリズムの特徴 三つの「げんてん」主義。
・原点主義 その宗教の創始された時点、あるいはその宗教の出発点と考えられる時点の精神なり状態なりに帰れということ。
・原典主義 その宗教の聖典に忠実であれという立場。しかしその解釈が歴史的に適切であり正統的であるかどうかはまったく別問題。
・減点主義 現在の状況を負の状態、かつてあった信仰形態からすれば堕落した状態として捉えること。
つまり、回帰すべき時点とそのモデルがあり、かつ現在がそこから隔たりつつあるという認識をもつ運動がファンダメンタリズムということである。
グローバル化・情報化が急速に進行した現代世界において、価値の相対化、アイデンティティの薄まりが価値の相対化は判断基準をなくしてしまう。
現代のファンダメンタリズムは、価値の相対化への危機感に対する過激な対応という面を持つ。
ところが、伝統的なストーリーが、もはやリアリティをもてない現代社会や現代文化の構造がある。
天国と地獄、悪魔、前世のカルマ、そうしたものよりアダルトチルドレン、トラウマといった言葉のほうが説得力をもってしまう時代。
生と死に関わる伝統宗教のストーリーに、リアリティをもてなくなった世代は、もしそういうものが必要になったときは、自分で構築しなければならない。
ひょっとしたらスピリチュアルブームは、伝統的霊魂観とのつながりを持ちつつ、オカルトの領域とも近く、既成教団とは無関係という新しさという新しいストーリーなのかもしれない。
この中に出てくる、地下鉄サリン事件で夫を亡くした女性へのインタビューがありましたが、その女性がテレビ出演した時に、警察批判をされたのですが、放送時に、その箇所がカットされていた様ですね。
結局、この事件オウム真理教の事ももちろん、警察の失策も十分に明らかにされてないのですね。
あと、その女性が言われた事で印象的だったのは、大切なご主人を亡くされたのもあって、街中で歩いている子ども連れの若い夫婦を見たり、そこから聞こえてくる会話が聞こえただけで、苦しかったと言われていた事ですね。
地下鉄にサリンをばらまく計画を警察は知っていたのかどうか、それはわかりませんが、サリンを作っていることを知った時点で何かできたのではないかとは思います。
どういう死に方であろうと、死別の悲痛は深いものがあります。
一人で抱えるのではなく、しゃべれる場を持つことは大切だなと思います。
というか、そういう場がどこにあるかという情報が入らないし、伝えることもできない。
アルコール依存症の場合、話をして聞くことのできる仲間がいるAAなどがあるわけで、恵まれていると感じます。
本山もそういうとこに力を入れてほしいのですが、どうもあまり関心がないようですね。
高橋英利さんの写真を見ますと、割と筋肉質の感じがします。
高橋さんは、学校時代のクラブでのトレーニングも苦にならず、それもオウムを受け入れた理由のひとつだと、おっしゃってます。
オウム事件当時、テレビで話題になったオウムの人達に対して、線の細いイメージを私は抱いておりました。確かに、過酷な修行行為が行われていましたが、体育会系という言葉と、どうも結びつかなかったのです。
特に、オウム事件では、身体を使わない、頭だけの人間の行為というニュアンスで語られたりしますが、少し違いますね。
上下関係がはっきりしていたし、修行は体力勝負みたいなところがあったようですから。
青白いエリートが頭だけで考えた観念の世界というわけではないのですね。