三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

山岸俊男『心でっかちな日本人』

2007年07月15日 | 

「心でっかち」とは、知識と行動のバランスがとれていない「頭でっかち」のように、心と行動のバランスがとれなくなってしまっている状態のこと。
心の持ち方さえ変えればすべての問題が解決される、と考える「精神主義」がその極端な例である。

心でっかちは「現実を見る目」を微妙に曇らせてしまう。
たとえば、「若者たちの心の荒廃」という心でっかちな思い込みが、現実には存在しない「凶悪な少年犯罪の増加」という幻を生み出している。

いじめの原因として、子供たちの心がすさんで共感性、つまり他人を思いやる心が失われているという説明はほとんどの人が同意しているが、この説明も「心でっかち」の落とし穴にはまっている。

他人を思いやる心の持ち主は、他人を苦しめる行動をとらない。
だから、「いじめ」をする子供は相手を思いやる心を失った子供なのだ。

しかし、相手を思いやる心を持った子供は「いじめ」をしない、という前提そのものが必ずしも正しくない。

「いじめ」に加わるか、「いじめ」をやめさせようとするか、それはみんながどうするかにかかってくる。
一人だけ「いじめ」をやめさせようとする生徒がいても、一人だけではその生徒も一緒にいじめられてしまう。

この場合、「いじめ」が悪いことだと思い、いじめられる生徒がかわいそうだと思っても、自分の身を守るためには「いじめ」に加わるか、見て見ぬふりをする必要がある。
しかし、ほとんどの生徒が「いじめ」をやめさせようと思っている場合、安心して「いじめ」をやめさせる行動がとれる。

「いじめ」に加わるか、「いじめ」をやめさせようとするか、クラスの中でそれぞれの行動をとっている生徒の数に依存している。
「いじめ」阻止をするためには、何人かが加勢してくれるかによって違ってくる。

担任が「いじめ」を許すつもりはないと生徒たちに断言すると、安心感を与え、「いじめ」阻止行動をしやすくなる。
逆に、頼りない担任だと不安感を与えることになって、「いじめ」を阻止行動に加勢することができなくなる。

その行動をとることによって得られる自分の利益の大きさや、自分の身にふりかかってくるコストの大きさは、他の人が同じ行動をとっているかどうかによって変わる。
ほかにたくさんの人が同じ行動をとっていれば、自分もその行動をとりやすくなる。

といったことが山岸俊男『心でっかちな日本人』に書かれてて、なるほどなと思った。
「それは心の問題だ」と言えば何だかわかった気がする。
だけど、実は何も言っていないのと同じなのかもしれない。

コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする