三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

高橋秀実『トラウマの国』

2006年02月12日 | 

高橋秀実『トラウマの国』は、著者があちこち探訪したルポルタージュ。
絶妙なぼやき加減が面白すぎて、作り話じゃないかと思ってしまうのが欠点である。
その中からいくつかご紹介しましょう。

「トラウマへの道」
本来、トラウマとは、生きるか死ぬかというような恐怖に満ちた体験(戦争、災害、事故、犯罪、虐待など)がもたらす心の傷である。
しかし、何によって苦痛を感じるか、恐怖するかは人によって個人差がある。
同じ出来事でも、トラウマになるか否かはその人次第なのである。
そしていつの間にか、トラウマのインフレ状態になってしまった。

高橋秀実氏の説明に、なるほどと思いました。

ネットを見てたら、「トラウマ即時解消方法をお教えします」というサイトがあるのから、トラウマと言っても楽なもんです。
今の自分の「生きづらさ」や「自己否定」といった状態の原因は何かというと、子供のころの心の傷(親がかまってくれなかった、いい子でいようと必死だった、など)がトラウマとなり、本当の自分を生きることができなくなってしまった。
そこで、自分の存在意義を確かめたい、トラウマが何かを見つければ今の自分を克服できる、ということになる。

ところが、高橋秀実はトラウマを思い出せない。

トラウマを自覚できないのは、それだけ抑え込んでいるわけで、トラウマがないことがトラウマがある証拠になる。
だもんで、「トラウマがないことが、トラウマなのよ」と、高橋秀実氏は言われてしまう。
自分探しが「本当のトラウマ」探しになっているという笑い話。

児童虐待のような場合はともかくとして、子供時代のちょっとしたことがトラウマになっている、そのトラウマが諸悪の根源だと決めつけてしまっては、あまりにも安易すぎる。

思うようにいかないことは何にもかもすべてトラウマのせいだ、自分は哀れな被害者だということにしてしまい、結局自分の姿に目をつむってしまいかねない。
私にしても、どうしてこんなに劣等感が強いのか、自分でも不思議なくらいである。
イヤなこと、傷ついたことはたくさんあったし、今でもふと思い出して、うぎゃーと叫んでしまうこともある。
しかし、仮に何かトラウマがあり、それを思い出して受け入れることができたら、私の劣等感が解消し自信満々な人間になれるかというと、そうはいかないだろうと思う。
なぜなら、私は自虐が好きなんだから仕方ない。

「もっとユーモアを―「話し方」の学校」

私は話が下手である。
まず話題に乏しい。
だから何を話したらいいのかわからない。
何を話そうかとあせって、ますます話せなくなる。
話しかけられたら、気の利いた受け答え、座をわかせる巧みな冗談を言わなくてはとあせる。
それでも無理して何かしゃべるのだが、言語不明瞭、意味不明なもんで、白けてしまう。
おまけに最近耳が遠くなってしまい、話しかけられても聞き返すことが多くなった。

そんな私なもんだから、少しでも上手にしゃべれたらと思って、話し方教室に一年間通ったことがある。

早口にならない、ゆっくりしゃべる、「あのう」「ええと」といった言葉は使わない、「~なんで、~というわけで、~」というように長々とした文にせず、「~です。そして~でした」というふうに短くする、などを習った。
しかし、話の上手な人は早口だろうが、あちこちに話が飛ぼうが、面白い。
この話し方教室に来ている人、皆さん結構話がうまい。
なんでわざわざ話し方を学ばなくてはいけないのかと思った。
世の中には、自分は話が下手だ、ユーモアがない、ということに自信を持っている人が多いのだろうか。

他にも、「ふつうの人になりたい―「子供」の作文」(子供たちは疲れている)、「生きる資格―「能力」の時代(資格を取ってもあまり意味がない)」、「お金の気持ち―「地域通貨」の使い道」(地域通貨とはこんなもんか)、「妻の殺意―「夫婦」の事件」と「愛の技法―「セックス」を読む女」(我が家も危ない)、「せわしないスローライフ―「田舎暮らし」の現実」(老後の夢が壊れた)など、読みながら私もぼやきたくなる話題満載です。 

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