今日は息子の大学受験だが、D判定なので、浪人確実という情勢、奇蹟を期待するしかない。
お茶断ちをして願掛けをするように、何かと引き替えに合格という奇蹟をお願いするとしたら、何をするか、と妻に聞いたら、「うーん」としか答えなかった。
私だったら一週間の禁酒だろうか。
A・タルコフスキー『サクリファイス』では、主人公は核戦争が勃発したとテレビで知り、世界を救うために自らを犠牲にしようと思い、自分の家を焼いてしまう。
そのおかげで核戦争はなかったことになり、世界を救うという奇蹟が起こる。
しかし、みんなはそのことを知らないので、家を焼いてしまった主人公は核戦争の妄想を抱いた狂人と思われる。
もっとも、タルコフスキーは説明を一切しないから、この映画を見て、主人公がどうして家を焼くのかさっぱりわからず、あとから説明を読んで、そういうことかと納得した次第です。
何かを犠牲にすれば願いが叶うと、我々はどこかで信じている。
インチキ宗教にだまされる人は、何かのために自分を犠牲にしているのだろうと思う。
たとえば、子供の難病を治すために、家から何から手放して、インチキ宗教に注ぎ込んだという人は珍しくない。
財産を犠牲にすることによって願いを叶えようとするわけで、『サクリファイス』の主人公と同じである。
三島由紀夫も日本のために自らの命を犠牲にしたのかもしれない。
伊藤桂一『静かなノモンハン』は、ノモンハン事件生き残り3名からの聞き取りである。
戦争はまずは勝つのが目的であるが、形勢が不利になったら退却するのが当然である。
ところが、日本軍は降伏はもちろんのこと、撤退すらもなかなか認めなかった。
ノモンハン事件でも、圧倒的に物量に優勢なソ連軍に立ち向かおうとするが、食料や弾薬すらない。
結局のところ、死に場所を求めて、潔く散ろうとする。
戦争のように、みんなのために命を捨てるという犠牲は美しいが、こういう行為は下手をすると死を美化してしまう。
しかし、自らの犠牲の対価として何かを得るということは、宗教の本来とは違う。
グレアム・グリーン『情事の終り』でも、愛人を生き返るなら二度と会わないと神に約束する。
これは取引である。
『サクリファイス』の美しさは、危ういものを秘めた美しさである。