遠藤周作『私にとって神とは』では仏教についても触れていますが、その説明に首をかしげる個所があります。
もっとも仏教といってもいろいろあって、仏とは何か、どうすれば仏になるかといった中心となる教えでも、上座部仏教、チベット仏教、日本仏教、それぞれ説いていることが違うし、日本仏教でも宗派によってまるっきりと言っていいほど考えが異なっています。
同じ仏教ではあっても、共通するのは教祖が釈尊だという点だけではないかと思うことがあります。
ですから、仏教はこうなんだと簡単には言えないし、違うとも言いきれません。
無我についてもそのことが言えます。
無我とはどういう意味か、アートマンがあるかどうか、諸説あるそうです。
司馬遼太郎氏にならって、中村元『仏教語大辞典』の「無我」の項の解説を引用します。
「パーリ語聖典において、無我の原語はanattanである。この語には「我ならざる(こと)」という意味と、「我を有せざる(こと)」という二義が存する。初期の仏教では決して「アートマン(我)が存在しない」とは説いていない。もとは「我執を離れる」の意であり、ウパニシャッドの哲学がアートマンを実体視しているのに対し、仏教はこのような見解を拒否したのである。これは、我(アートマン)が存在しないと主張したのではなく、客体的な機能的なアートマンを考える考え方に反対したのであり、アートマンが存在するかしないかという形而上学的な問題に関しては釈尊は返答を与えなかったといわれている。すなわち「わがもの」という観念を捨てることを教えたのである。原始仏教においては、「五蘊の一つ一つが苦であるゆえに非我である」という教説、また「無常であるがゆえに無我である」という教説が述べられている。これは我でないものを、我、すなわちアートマンとみなしてはならないという考え方であって、特に身体をわがもの、アートマンとみなしてはならぬと主張された。そして、「われという観念」「わがものという観念」を排除しようとした。説一切有部では、人無我を説き、アートマンを否定したが、諸法を実有とし、法無我を説かなかった。後になると次第に「アートマンは存在しない」という意味の無我説が確立するにいたった。この立場は、説一切有部、初期大乗仏教にも継承された。大乗仏教では、無我説は空観と関連して、無我とは、ものに我(永遠不変の本体・固定的実体)のないこと、無自性の意味であるとして論ぜられ、二無我(人無我と法無我、人法二空)が説かれた」
無我の意味は時代、宗派によって異なっていて、無我だからアートマンはないとは言えないようです。
『ミリンダ王の問い』で、輪廻の主体は何かとミリンダ王は何度か質問します。
私にはナーガセーナの説明はなんのことやらさっぱりわかりません。
霊魂は否定するが輪廻は認める、というのは無理があると思います。
もっとも、霊魂の実在や輪廻転生を説く宗派のほうが多いのではないでしょうか。
チベット圏では風葬が行われています。
人が死ぬと霊魂は別の肉体に転生するから、死体は魂が抜けた空っぽの入れ物にすぎない、だったら鳥に死体を布施したら功徳になるからそっちのほうがいい、ということです。
つまりは死体の有効利用です。
脳死による臓器移植にしても、死体はモノだという考えだと思います。
車が壊れて廃車になっても、使える部品は有効に利用しないともったいない。
同じように、人間が死んでも使える部分は、鳥に食べさせたり、臓器移植したりして使えばいい、そういう理屈でしょう。
だったら、食べるものがなければ人肉を食べてもOKということになるはずです。
森岡正博『生命観を問いなおす』に、「脳死になった人は死んでいるのだから、脳死の人を人体実験に使ってもいいはずだという考え方が出されています」と書かれています。
「もう生きた人間とは呼べない(と法律が考える)「脳死の人」」を、新薬のはたらきを調べるためや人工臓器の性能を調べるための実験台、血液や臓器の供給源として、あるいは診察や実習の訓練のために利用しようというわけです。
実際に人工心臓の実験に脳死の人が使われたそうです。
「アメリカでは、死んだ人間の身体をバラバラに分解して、それを心臓弁や骨や皮膚や細胞などのパーツごとに収拾し、使いやすいように加工して、医療の材料として売りさばく商売があります」
『生命観を問いなおす』は1994年発行ですから、事態はもっと進んでいるでしょう。
森岡正博氏は、原始仏教の基本教理によると「他人の臓器をもらってまでも生き延びたいという発想は、この世での生に対する過度の執着にもとづいている。(略)臓器移植を望むことは、そういう執着を助長し、火に油を注ぐようなもの」であり、これが臓器移植への解答だと思うと書いています。
たしかに無我を「我執を離れる」という意味と受け取るなら、臓器移植してまで長生きしたいと思うのは我執そのものです。
しかし、執着ということで言えば、献血や骨髄移植も「生き延びたいという発想」によるものですからダメということになります。
どこで線引きをするかということになりますが、脳死による臓器移植は明らかに「過度の執着」です。
臓器移植と無我と日本仏教と結びつけるのは、落語の三題噺みたいなもので、無理があると思います。
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円さんは、人間ドックなのかしら?そこで健診する方は、対象外かと思います。
悪徳商法でなければ協力したらいのではないですか。
内臓の代わりに新聞紙を詰めたのは、病理解剖や行政解剖でではないでしょうか。
「献体」と違う専門用語があるのかも。医師が、研究したい内臓などを取ってしまってから、ご遺体をご家族にお返しするので、お腹がペチャンコにならないように、詰めるってお話、聞いたことあるのですが、私も曖昧でごめんなさい。
イギリスでは解剖実習用の死体が不足して、墓から死体を盗掘する商売が盛んだったそうですね。
私は腎臓バンクとアイバンクに登録していますが、献体はどうしようかと迷っています。
免許証にドナーになるという欄があります。
国ぐるみで死体の盗掘をしているようなものだと思います。
献体について以前看護士さんから、そんなこと絶対するものじゃないって、言われたことあります。病巣の部分を取ったら、そこにガーゼとか新聞紙とか詰めて縫い合わせて(中身は家族に見えないけど)そういう体になってお返しするんですって。びっくりしました、そのお話聞いたとき。そういうのって、いくら死んじゃっているて言っても、心情的にイヤと思いました。
今は、全身献体を希望するご家族多いそうです。骨壺に入れられて戻ってくるから、費用の問題で。
友人のお父様が亡くなったとき、ご本人の遺言で全身献体したそうです。医学の発展のためにということで。
でも骨になって戻るまで、およそ2年間。その間、友人は、お父様が地下の死体置き場のプールで浮かんでいる夢に何回もうなされたそうです。
臓器移植や脳死の問題は、関係者の先生方も、これからは、もっと慎重にいろんな分野の専門家の方々の意見も聞きながら考えていって欲しいです。安易に答えを出してはいけない分野と思うのですが・・・