エンディングノートというものがある。
自分が死んだらこうしてほしい、葬式はこういう形で、ということや、家族への思いなどをエンディングノートに綴る。
「「死」を考えることは、「生」を見つめること」と『よくわかる家族葬のかしこい進め方』にあり、それはそのとおり。
しかし、「終末医療はどのような方法を望むのか、葬儀はどのような形で行ってほしいかということを、エンディングノートに記すなどして意思表示しておけば、今後の人生を不安なく過ごすことができます。また、意思表示をしておくことは、残される人たちへの最後の思いやりともいえます」とあるのはおかしい。
エンディングノートに意思表示をしたら不安がなくなるなんてことはあり得ないし、場合によっては、思いやりのつもりがいらんお世話になるかもしれない。
とはいっても、全く不要だというわけではない。
おばあさんが孫のためにせっせとへそくりしては銀行に貯金していたのに、おばあさんが急死し、その貯金のことを誰も知らなかったために、おばあさんのへそくりが銀行のものになるということが結構あるそうだ。
そんな時は、どこに貯金をしているかをノートに書いておけば大丈夫。
それとか、自分のもので処分できるものはなるべく処分しておくべきだと思う。
そういう死への準備は必要である。
だけど、エンディングノートにあまり注文を書きすぎると、残された家族が負担に感じることもあるだろうし、下手するとトラブルになりかねない。
たとえば、エンディングノートの書式例には、「喪主をだれにするか」「弔辞を読んでほしい人」「通夜ぶるまいや精進落とし」の希望する料理という項目まであって、そこまで仕切る必要があるのかと思う。
喪主にしても、普通は長男がなるが、「次男を喪主に」と書いてあったら、長男は面白くない。
遺産の相続でも、子どもの一人に多く与えると書き残すと、子どもの間でもめることになる。
夫とは別の墓を建てて納骨してくれと遺言した人がいたが、これも子どもにとっては面倒な話である。
親と子どもでは思いが違うかもしれないから、死んだ後まで仕切るような真似はしないほうがいいと思う。
それと、元気な時と病気になった時とでは考えが変わってくる。
たとえば、「尊厳死の宣言書」に「この宣言書は、私の精神が健全な状態にある時に」とあるが、肉体が健全でなくなったら考えが変わるものである。
あるご夫婦、寝たきりになったら延命措置はしない、尊厳死がいいと普段から話していたそうだが、ご主人が突然倒れて植物状態になると、奥さんはご主人が生きていてもらわないと困るというので、今でもご主人は入院している。
それとか、ある方が末期ガンと宣告され、医者が家族に、痛み止めだけだと3ヵ月、抗がん剤などを使うと6ヵ月、どうしますかと尋ねたそうだ。
一秒でも長生きしてほしいのが人情だし、かといって、苦しんでまで長く生きさせるのはエゴではないかとも悩む。
人間、そんなに冷静に行動できるものではない。
その場にならないとわからないし、時間が経てば考えが変わるかもしれない。
まして、いざ亡くなるとなると、それまでの考えはふっとぶ。
長年寝たきりだったり、末期がんで医者からあとどれくらいと宣告されたりして、親戚に連絡し、葬儀屋に相談して心の準備をしていたつもりでも、いざ亡くなってみると、「急なことで」とか「頭がぼうっとして」と言う人が多い。
頭で考えたことと現実は別なのである。
エンディングノートでいろんな指示をするよりも、普段から家族などまわりの人とざっくばらんに話し合っておくほうが大切だと思う。
でも、そういう関係がないからエンディングノートが必要になるんだろうけど。
エンディングノートの趣旨はもっともだが、なんか商業ベースのような気がして、どうもねというのが私の感想です。
それと思うのが、迷惑をかけないということ。
現代の悪しき風潮は「人に迷惑をかけてはいけない」ということが人間のあるべき姿のようになっていることである。
エンディングノーは、死んだときにまわりに迷惑をかけない、ということがまず第一のようである。
家族葬にしてもそうで、迷惑をかけたくないから家族葬を、というのが多いし、散骨にする人の中には、子どもに負担をかけたくないと考える人がいる。
何が迷惑だと感じるか、それは人それぞれなわけだが、いつのまにか葬式や墓が人に迷惑をかけることになってしまった。
それじゃ気兼ねしながら死なないといけない。
家族葬や散骨が人に迷惑をかけないというと、もちろんそんなことはない。
どのような死に方であっても、また死のための準備万端滞りなくしていようとも、死ぬことは大なり小なり、まわりの人に迷惑をかけるわけだし、そもそも迷惑をかけずに生きること自体が不可能である。
ところが、小谷みどり氏の話にあったのだが、PPK(ピンピンコロリ)やGNP(元気で長生きポックリ)なんてアホなことがいいことのようにもてはやされていて、ポックリ死ぬことがいい死に方だとされている。
そうなると、長生きすることやわずらうことが何だか悪いことになってしまい、ポックリ死ねない人は、年を取って役に立たなくなった、迷惑をかけているというので自死をすることになる。
家族葬や直葬と自死が増えていることは無関係ではない。
いつもの論理の飛躍ではありますが。
自分が死んだらこうしてほしい、葬式はこういう形で、ということや、家族への思いなどをエンディングノートに綴る。
「「死」を考えることは、「生」を見つめること」と『よくわかる家族葬のかしこい進め方』にあり、それはそのとおり。
しかし、「終末医療はどのような方法を望むのか、葬儀はどのような形で行ってほしいかということを、エンディングノートに記すなどして意思表示しておけば、今後の人生を不安なく過ごすことができます。また、意思表示をしておくことは、残される人たちへの最後の思いやりともいえます」とあるのはおかしい。
エンディングノートに意思表示をしたら不安がなくなるなんてことはあり得ないし、場合によっては、思いやりのつもりがいらんお世話になるかもしれない。
とはいっても、全く不要だというわけではない。
おばあさんが孫のためにせっせとへそくりしては銀行に貯金していたのに、おばあさんが急死し、その貯金のことを誰も知らなかったために、おばあさんのへそくりが銀行のものになるということが結構あるそうだ。
そんな時は、どこに貯金をしているかをノートに書いておけば大丈夫。
それとか、自分のもので処分できるものはなるべく処分しておくべきだと思う。
そういう死への準備は必要である。
だけど、エンディングノートにあまり注文を書きすぎると、残された家族が負担に感じることもあるだろうし、下手するとトラブルになりかねない。
たとえば、エンディングノートの書式例には、「喪主をだれにするか」「弔辞を読んでほしい人」「通夜ぶるまいや精進落とし」の希望する料理という項目まであって、そこまで仕切る必要があるのかと思う。
喪主にしても、普通は長男がなるが、「次男を喪主に」と書いてあったら、長男は面白くない。
遺産の相続でも、子どもの一人に多く与えると書き残すと、子どもの間でもめることになる。
夫とは別の墓を建てて納骨してくれと遺言した人がいたが、これも子どもにとっては面倒な話である。
親と子どもでは思いが違うかもしれないから、死んだ後まで仕切るような真似はしないほうがいいと思う。
それと、元気な時と病気になった時とでは考えが変わってくる。
たとえば、「尊厳死の宣言書」に「この宣言書は、私の精神が健全な状態にある時に」とあるが、肉体が健全でなくなったら考えが変わるものである。
あるご夫婦、寝たきりになったら延命措置はしない、尊厳死がいいと普段から話していたそうだが、ご主人が突然倒れて植物状態になると、奥さんはご主人が生きていてもらわないと困るというので、今でもご主人は入院している。
それとか、ある方が末期ガンと宣告され、医者が家族に、痛み止めだけだと3ヵ月、抗がん剤などを使うと6ヵ月、どうしますかと尋ねたそうだ。
一秒でも長生きしてほしいのが人情だし、かといって、苦しんでまで長く生きさせるのはエゴではないかとも悩む。
人間、そんなに冷静に行動できるものではない。
その場にならないとわからないし、時間が経てば考えが変わるかもしれない。
まして、いざ亡くなるとなると、それまでの考えはふっとぶ。
長年寝たきりだったり、末期がんで医者からあとどれくらいと宣告されたりして、親戚に連絡し、葬儀屋に相談して心の準備をしていたつもりでも、いざ亡くなってみると、「急なことで」とか「頭がぼうっとして」と言う人が多い。
頭で考えたことと現実は別なのである。
エンディングノートでいろんな指示をするよりも、普段から家族などまわりの人とざっくばらんに話し合っておくほうが大切だと思う。
でも、そういう関係がないからエンディングノートが必要になるんだろうけど。
エンディングノートの趣旨はもっともだが、なんか商業ベースのような気がして、どうもねというのが私の感想です。
それと思うのが、迷惑をかけないということ。
現代の悪しき風潮は「人に迷惑をかけてはいけない」ということが人間のあるべき姿のようになっていることである。
エンディングノーは、死んだときにまわりに迷惑をかけない、ということがまず第一のようである。
家族葬にしてもそうで、迷惑をかけたくないから家族葬を、というのが多いし、散骨にする人の中には、子どもに負担をかけたくないと考える人がいる。
何が迷惑だと感じるか、それは人それぞれなわけだが、いつのまにか葬式や墓が人に迷惑をかけることになってしまった。
それじゃ気兼ねしながら死なないといけない。
家族葬や散骨が人に迷惑をかけないというと、もちろんそんなことはない。
どのような死に方であっても、また死のための準備万端滞りなくしていようとも、死ぬことは大なり小なり、まわりの人に迷惑をかけるわけだし、そもそも迷惑をかけずに生きること自体が不可能である。
ところが、小谷みどり氏の話にあったのだが、PPK(ピンピンコロリ)やGNP(元気で長生きポックリ)なんてアホなことがいいことのようにもてはやされていて、ポックリ死ぬことがいい死に方だとされている。
そうなると、長生きすることやわずらうことが何だか悪いことになってしまい、ポックリ死ねない人は、年を取って役に立たなくなった、迷惑をかけているというので自死をすることになる。
家族葬や直葬と自死が増えていることは無関係ではない。
いつもの論理の飛躍ではありますが。
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