三日坊主日記

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平安時代から明治時代までの結婚(1)

2018年05月04日 | 日記

平安時代と明治時代の結婚に関する本を読むと、早婚である、離婚が多い、仲人の存在など、共通する点がけっこうあります。
明治中期まで、結婚や性的倫理は平安時代の考えが続いていたかもしれないと思って、中世と近世の結婚についても本を斜め読みしました。
続いていると思われることもあれば、家の成立と婿取婚から嫁取婚へといった変化もあります。

中世とは、鎌倉室町時代だと思ってましたが、田端泰子氏によると、鳥羽院政期から戦国期の終わりまでで、院政期から鎌倉後期までを中世前期、それ以降が中世後期だそうです。

・早婚
「養老令」では、男は15歳、女は13歳以上になれば結婚でき、平安時代には13~17歳の年齢でたいていの女性が性的体験を1回、ないし持続的にもっており、処女性は重んじられなかった。
江戸時代の女の適齢期は16~18歳。
東北地方は平均初婚年齢がきわだって低く、明治15年に岩手県では、夫17.07歳、妻14.09歳。
全国平均が夫22歳10月、妻19歳4月で、現在と比べると全国的に早婚だった。
東京下町の商家でも、娘盛りは14歳から17歳までとみなされた。

赤松啓介氏によると、少年が若衆入りして夜這いをするのは13歳か15歳、娘は月経があってからというところがあるし、陰毛が生えてからというムラもある。
赤松啓介氏は1909年生まれですから、大正から昭和にかけてのことでしょう。

湯沢雍彦氏は、明治では離婚・再婚が多かった理由の一つとして、処女性が求められなかったということがあるからだと書いています。
フロイス(1532~1597)「日本の女性は、処女の純潔をなんら重んじない。それらを欠いても、栄誉も結婚(する資格)も失いはしない」

女性でも離婚再婚を繰り返すことが多く、一人の夫と生涯をともにすることが女性にとって幸福だとか、道徳的であるとかの倫理が確立していない、女性にとって性的には後世より自由であり、貞操観念が未成立だったこともあると、服藤早苗氏は書いてます。
しかし、後世でも性的に自由であり、貞操観念もあまりなかったようです。

・身分内婚
平安時代の結婚は、基本的に身分内婚で、庶民は共稼ぎだった。
相手をどうやって見つけていたかというと、恋と結婚の区別は上層貴族以外はそれほどなかったと思われ、お互いに気に入って通っているうちに、夫が住みつくようになった場合も多かった。

鎌倉、室町時代は、婚姻は家の問題で、血縁関係と姻戚関係が重要な結束の紐帯だと考えられ、幕府が介入したり、大名が介入したりした事例はごく少数だった。

政略結婚が戦国時代から顕著になり、家臣掌握の手段として家臣の婚姻を規制した。
家の存続にプラスとなるかどうかを検討し、慎重に相手選びをしていた。

近世の農村女性の結婚は中世から引き続き、家と家の結びつきを主な目的にし、後継者づくりを結婚に期待した。
武士の結婚と違って、幕府や領主の許可は必要でなかったが、領主の異なる村や町の間の農民の結婚の場合は、相手の領主や村名主に届け出ることが必要だった。

上層農女性の場合、正式な結婚は仲人が必要であり、親族による縁談相手の家格や経済力、その他の調査をし、本人はその決定に従った。

農村では同じ村で顔なじみなので、自由な恋愛がしやすかった。
婚姻は家が同格なのが基本だが、家格が合わないと反対されたとき、若者組が嫁盗みをして応援した。
夜這いを重ねていたからこそではないでしょうか。

江戸時代、武家の結婚は命令で、商家は親が決めた。
長屋に住む庶民はまわりから勧められる。
明治の東京の下層階級では、婚約や仲人はなしで同居するという結婚は、昭和30年代の高度経済成長期直前まで続いていた。
下に行くほど自分の意思が通りやすくなるわけです。

・仲人
平安時代には男女がどこで知り合ったかというと、貴族から庶民まで、祭や寺社・辻が男女の出会いの場だったと、服藤早苗氏は言います。

森下みさ子氏によると、江戸時代の見合いは、水茶屋で男が座ってお茶を飲んでいるところに女が通りかかるという形で、見初めるが見合い。

男女を結びつける媒(なかだち)・仲人という役割が平安時代に生まれてくる。
村落内のように、日ごろから当人同士が知り合っている場合は、見合いは必要ない。

農村でも婚姻圏の拡大にともない遠方婚が起こった。
その理由のひとつに、政治的な意図から婚姻すべく、遠方からの嫁入りを進めた武家の婚姻の影響がある。
遠方婚から要請されてくるのが、両家をとりもつ仲人という存在である。
雑多な人間の集まる都市でも、誰かの世話がないと縁談には進めないので、仲人の役割が大きくなる。

仲人は持参金の十分の一の礼金を取り、商売として成り立った。
近世から昭和初期くらいまでの農民の婚姻は、仲人を立てるのが普通だった。
仲人は嘘やだましもあり、年を10歳ごまかしたり、見合いには瓜ざね顔の妹を見せ、祝言にはかぼちゃ顔の姉が嫁いだりした。

引用した本です。
服藤早苗『平安朝の母と子』
田端泰子『日本中世の社会と女性』
田端泰子、細川涼一『日本の中世4 女人、老人、子ども』
後藤みち子『中世公家の家と女性』
保立道久『中世の女の一生』
菊地ひと美『お江戸の結婚』
森下みさ子『江戸の花嫁』
増田淑美「農村女性の結婚(『日本の近世15』)
高木侃『三くだり半と縁切り寺』
湯沢雍彦『明治の結婚 明治の離婚』
赤松啓介『夜這いの民俗学』

(追記)
平雅行氏によると、結婚(家族)と財産の相続とは関係があります。
院政時代になると、家父長制的な家族の成立した。
荘園公領制が成立して不動産の私有が認められ、それを家の財産として男子が相続するようになった。
これによって家族のあり方が変わっていく。
夫婦の一体性が強まって、夫婦が同じ墓に入るようになるし、夫婦の財布も別々から一つになる。
男性中心の家社会が貴族階層で成立したことで、女性差別観が貴族社会に広まる。
得をした女性は正妻。
もともと日本では正妻という概念がなく、正妻と妾の区別がなかった。
それが、正妻の地位が確立し、正妻は家の中で大きな権限を持つようになる。

女性差別観は戦国時代に民衆の中に広がっていく。
10世紀に中国で成立した『血盆経』信仰が戦国時代から広まる。
女性はお産や月経の血で大地を汚す罪を背負っており、そのため血の池地獄に堕ちるというもの。

このころ、百姓でも家父長制的な家族が形成された。
もともと百姓の家は不安定で、すぐに壊れたが、百姓の生活が安定してきて財産を持つようになると、家の財産を男の子に相続させるようになった。
こうして永続的な家が百姓の世界に登場する。
それは、女性の地位の転落をもたらしていく。

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