橘外男について、永井龍男は『回想の芥川・直木賞』に「人としての印象も両賞を通じてその後二人とない「変り者」であった」と述べている。
もっとも、どこがどのように変わっていたのか、永井龍男は橘外男の原稿のことしか書いていない。
「彼の原稿というものも、他に類を見ない。だいたい五十枚以下のものは書かず、百枚二百枚におよぶ小説がほとんどであったが、私の想像によると、起稿から擱筆まで、一気に筆を進め、それから推敲に入るのだが、その加筆振りが尋常ではなかった。不満の個所は墨汁と毛筆で、他人には一字も見えぬまで丹念に塗りつぶす。それも、乾いてからは照りを持つほど暑く、何回も塗りつぶしてから、原稿用紙の欄外を極度にまで利用して九ポか八ポの活字位な細字で、ぎっしり書き込みをしてある。書き直せば一枚がゆうに二枚以上になるに違いない。それも一篇の小説の原稿が、第一頁から結末までほとんど同様で、正直のところ、この男は精神的に異状な点があるのではないかと、薄気味悪さを感じるほど執拗な加筆であった。原稿の写真がないのが残念である」
これで「変り者」扱いされたのではカワイソウ。
原稿用紙が真っ黒になるくらい推敲した橘外男の文章を、都筑道夫「息ふきかえした白昼夢」はこう評している。
「だが、作品を読むたびに、私は首をひねるのだ。そこには使いふるしの言葉が、紋切り型の配列をなしていて、プロットの展開もただただ持ってまわるばかり、少しもクレヴァーなところがない。これが推敲のはてとすると、書きっぱなしだったら、どんなことになるのだろう、と心配になってくる。
桃源社本に収録されている人工美女テーマの「妖花イレーネ」には、警官隊の銃撃を「パパーン! パンパン! ヒューン! ドドドドドドドド」と書いて、読者をおどろかす箇所があるが、この素朴さに達するための苦心なのだろうか」(『死体を無事に消すまで』)
でもまあ「この素朴さ」が魅力の一つなのである。
「墓が呼んでいる」(昭和31年)は怪談だが、美女姉妹が登場して、前半はなんだか「遊仙窟」というおもむきがある。
語り手の大学生が姉妹と水遊びをした時の感想。
「頸筋、背、太腿も露わに、真っ白なからだに二人とも水着を着けて、その水着がズップリ濡れてからだ中をキラキラ陽に輝いて、すらりとしながら引き締まって均整の執れた手肢……格好のいい胸の隆まり!(略)
二人とも欲しい、(略)その一人でもいいから、早く欲しい! 早く、からだをクッつけたい!」
直木賞作家にしては稚拙と言えば稚拙だが、結核で瀕死の病人がこんなことを話すのだからタマラナイ。
橘外男は晩年にキリスト教に入信したという。
子息の宏氏は「老年の悩みが凄かった」と回想しているそうだ。
それにしても、と思う。
というのも、橘外男は終戦を満州の新京市で迎えた。
敗戦後の新京の悲惨な状況を「麻袋の行列」などで描いている。
昭和21年9月に日本に帰ってきたらしい。
ところが、帰国後、最初の小説はなんと、妻が犬と……という「陰獣トリステサ」(昭和22年1~4月)なんですね。
やっぱり変わり者だと思いました。
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「墓が呼んでいる」という怪談を読んだことがないので、その件については、なにも申しあげられませんが、『遊仙窟』は、大変難解な本かと思います。四六駢儷体という文章を駆使し、しかも、故事がたくさん引用してあり、そのうえ『詩経』を読み切った人間しか、理解できない仕組みになっている本と聞いております。
なんでも、嵯峨天皇が読みたいと思って学者を探しても、読めるものがいなかったとか。
どなたの訳本で、読まれたのですか?訳された方、かなり実力のある方なのでしょうねぇ・・・
東洋文庫の前野直彬訳だったと思います。
たしか中野美代子氏によると、要は遊郭での話だとか。
「墓が呼んでいる」は↓を。
http://www.aozora.gr.jp/cards/001397/files/50071_37680.html
http://p.booklog.jp/book/22460
ご紹介のお礼に、遊仙窟ではありませんが、遊仙詩の一部をさわりだけ・・・
時代は陶淵明より少し前、郭璞という人が残した詩です。
遊仙詩十四首より、抜粋。
京華遊侠窟
山林隠隠遁
朱門何足栄
未若託蓬莱
・・・・・
雖欲騰丹谿
雲螭非我駕
・・・・・
華やかな都会は、侠気のあるやつに任せておく。
山中こそ、隠者の棲家。
地位も名誉も、いらない。
超俗の人生を送りたい~
・・・・
しかし、仙界に入る力量が我が身にはない。仙境に登ってゆきたいのだが、雲に昇るみずちは、私を乗せてくれやしない~
遊郭で遊びたいと思う人もいれば、仙界で暮らしたいと思う人もいますけど、どちらにせよ、なかなか、思う通りに生きていくのは、難しいみたいです・・・
早く、お墓にお迎えに来てもらう?それも、いや!ですよね・・・
『墓が呼んでいる』もバカバカしい箇所がたくさんありますね。でも、そこが面白くて。
私が恐いなと思ったのが、『蒲団』です。
『かえらぬ子』も好きですね。
解説を読むと、橘外男は霊の実在を信じていたそうです。
浦島太郎は白髪のおじいさんになりましたが、遊仙窟や桃源郷にはそういうひねりがありません。
日本人と中国人の違いでしょうか。
>京都8月2日さん
橘外男は実話という体裁にするために、「墓が呼んでいる」や「ウニデス潮流の彼方」がそうですが、最後の部分がくどいのが欠点です。
それに比べて、「蒲団」は下手な説明をしていないので、何かわからなくて怖いですね。
「生不動」でしたか、火事の話も。
いずれにせよ、中国のお話の方が、より現実に近いようなお話だったと思います。
「蒲団」怖そうですね。読んでみます。
とても、怖かったらどうしましょう…先日、電車の中で、酔ったおじいさんに、どういうわけか、いきなり、腕摑まれて怖かったわ。はなさんか、じいさん!オソマツ!
このお話は、謝肇淛(1564?~1642?)の人の書いた「五雑組」がもとになっています。漢文でも、落語でも、それほどオチは、変化していないように思います。
日本風になったり、そのままだったり、いろいろなパターンがあるようです。
坐蒲団3枚頂き、調子に乗って、また、一つ。昨日は、風がいきなり吹いて、蒲団が、ふっとんだ。落ちた所が、雪の残っているところで、ご本読むどころでは、ありませんでした。またや、オソマツ!
お話戻して、「和漢朗詠集」を調べてみました。たしかに、「遊仙窟」から引用した句が、2首ありました。その一つ
容貌のかほばせは舅に似たり 潘安仁が外甥なれば
気調のいきざしは兄のごとし 崔季珪が小妹なればなり
「源氏物語」蜻蛉にも、この部分を引用していた会話があったことを、その後、思い出しました。
「遊仙窟」も昔から、読んでいた文化人多いようですね・・・
映画でもリメイクはたくさんあって、国や時代が違っていれば、設定も変えないとおかしなものになります。
『東京物語』のリメイク『東京家族』はそこらがちょっと、でした。
広島県から東京へはそんな大旅行ではないし、開業医は休みがないのかと思うし、形見分けに着物をほしがる人がいるんでしょうか。
いつも、お返事くださる円さんのコメントがありませんでしたので、その晩は、お風邪でも召されたのかしらって、考えておりました。私でしたら、気づいた時点で、名前書き忘れたことを、付け加えますけどねぇ・・・
東京家族について・・・これを捧ぐって、言われても、天国で、小津安二郎監督、戸惑っているような。アングル的には、まねた部分あったようですが。
形見分けの着物は、不自然ではないと思います。彼女は、今時、珍しい個人の美容室のオーナー。個人経営では、着付けのお仕事も収入のうち。売れば二束三文の着物でも、良質のお着物でしたら買うとなったら、大変でしょ?先生として、いいもの欲しいはず。ただ、本人が着るには、身幅が違い過ぎて、仕立て直す必要が・・・着こなすには、お母さんと体型が違いすぎ。
開業医には休みはあると思いますが、そのお子さん達は、お小さい頃から、塾通いでお休みがないと思います。
この映画で、一番気に入ったところは、本やさんで、子供連れのパパが、バージニア・リー・バートンの「小さいおうち」を選んで買っていったところです。テーマは、そこに、絞られていると思いました。