三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

広島・小1女児殺害:事件から3年 揺れる被害者父の思い 「死刑でも喜べぬ」

2008年12月04日 | 死刑

広島・小1女児殺害:事件から3年 揺れる被害者父の思い 「死刑でも喜べぬ」
 広島市安芸区で小学校1年、木下あいりちゃん(当時7歳)が殺害された事件から、22日で3年。自衛官の父建一さんが毎日新聞の取材に応じ、「もう3年たったのか、という気持ち。いろんなことにあいりの意思を感じます」と話した。
 また、ホセ・マヌエル・トレス・ヤギ被告に対しては、「被告のように人を殺すの(を求めるの)は本意ではないが、無期懲役だと納得できないと思う」と複雑な心境を語った。
 建一さんはこれまで、一貫してトレス・ヤギ被告の死刑を求めてきたが、取材には「時がたつにつれ、被告の生命も、あいりの命も、私の命も、一人一人大切なものではないかと考えるようになった」「控訴審で死刑が出ても、単純に喜べない。もし死刑が出なかったらホッとするかもしれない」と述べた。
 その一方で、無期懲役について「もし彼が出所して誰かを傷付けたら、誰が責任をとるのか。一生、中にいてほしい」とし、「同じように被害に遭った人や支援者のためにも、無抵抗な女の子が性犯罪で殺されるという事件を許してはいけない」と話した。
毎日新聞11月21日

この記事には驚いた。
木下氏は死刑判決を待ち望んでいると思っていたからである。
事件が起きたのは2005年11月、そして木下氏は2007年11月、控訴審初公判を前に死刑判決を求める7022人分の署名を広島高検に提出している。
ところが、「無期懲役だと納得できないと思う」と言いながらも、「もし死刑が出なかったらホッとするかもしれない」と複雑な心境を述べている。
死刑を求めていた木下氏の心境がこの1年間で変化したのはどうしてだろうか。

あれこれと検索してみるとこういうことらしい。
「最近、今までなかった感情が芽生え始めた。きっかけの一つは、意見陳述した公判で、被告がペルーで女児にわいせつ行為をしたとされる現地検察庁作成の記録が証拠採用されたことだ。1審では採用されなかった。「死刑判決に近づいた」と思うと同時に「世界に1つだけだったあいりの命と同じように、被告の命にも何か意味があるのではないか」と思い始めた」朝日新聞11月22日

では、どうして死刑の可能性が高くなったら死刑判決を喜べないという気持ちになったのだろうかと思う。

遺族の気持ちは時間とともに変わっていくことがある。
連邦ビル爆破事件で娘のジュリーさんが殺されながら死刑廃止を訴えるバド・ウェルチ氏に、布施勇如氏は池田小事件の概要を紹介し、「死刑を望んでいる子供たちの家族には、どんな助言を?」と尋ねた。
バド・ウェルチ氏は「私が言えるのはただ、『時』が最も大切だということ。愛する家族を失った怒りをまずは自分自身に向ける時間が必要です。私の場合は、ジュリーに外国語を学ばせたことを後悔した」と答えた。
ジュリーさんはスペイン語を学び、連邦ビルの社会保障局で働いていなければテロに巻き込まれなかった。
そのことをウェルチ氏は悔い、自らを責めたのである。
そして、「時間をかけてこそ、その責めは義認される。私がその状態にたどり着くまで、1年かかったが、ほかの人は4年、5年とかかるかもしれない」と言っている。(布施勇如『アメリカで、死刑をみた』)

どういうことをウェルチ氏が言っているかというと、「義認」とは「キリスト教で、罪ある人間がキリストの贖罪によって正しい人として神に認められること。罪のゆるし」ということだから、ウェルチ氏の罪(もちろん娘さんの死はウェルチ氏の責任ではないが)が許され、正しい人として認められる、という意味だと思う。

このことはキリスト教徒ではない私にはよくわからないが、私なりに解釈すると、死者への罪の意識が怒りに結びつくことがある、しかし自らを責めていたのが時間がたつとともに自分を受け入れるようになる、それにつれて怒りが別の感情に変わっていく、ということではないだろうか。

この点でも、裁判に被害者が参加する(公判への出席、情状に関する事項についての証人に対する尋問、自ら被告人に対して行う質問、証拠調べ終了後の弁論としての意見陳述(求刑を含む)を認める)被害者参加制度には反対である。

被害者の思いが変化するなら、一審での求刑が二審では変わるかもしれないからである。

たしかに時は重要だが、ウェルチ氏や木下氏の心境が変化したのは時間が経過したということだけではないと思う。
というのも、すべての遺族が死刑に疑問を持つとは限らないからだ。

19歳の娘さんを殺されたパトリシア・ブラードさんは死刑に賛成である。
ブラードさんは布施勇如氏にこう言っている。
「人の命を奪った罰として、死刑は用意されている。罪悪を抑止するために死刑を用いる。そういう国に暮らしている私たちは、幸せね。二度とそんな罪を犯すことができないよう、こういう人間の命を奪うことは正しいことだもの」

ブラードさんは死刑の執行に立ち会っている。
薬物注射による執行は「とても速く終わった。何の苦痛もなくね」とブラードさんは言う。
あまりに安らかな死刑囚の最期に不満を表す関係者は多いそうだ。

ウェルチ氏が死刑に反対するのはキリスト教の信仰からだが、ブラードさんもキリスト教徒であり、死刑に賛成な理由として聖書を引用している。

木下氏はおそらくいろんな思いがからみあい、言葉では言い表せないものがあると思う。
それにしても、「被告の生命も、あいりの命も、私の命も、一人一人大切なものではないかと考えるようになった」と木下氏は言われているが、殺された子どもの命と殺した人間の命がともに大切だとはなかなか言えるもんじゃない。
頭が下がる。

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