堀川惠子『永山則夫』を読むと、石川義博医師の精神鑑定はいい雰囲気で終始したように感じます。
永山則夫(24歳)の写真は石川義博医師が八王子医療刑務所でこっそり持ち込んだカメラで撮したものです。
永山則夫(24歳)の写真は石川義博医師が八王子医療刑務所でこっそり持ち込んだカメラで撮したものです。

しかし、石川義博『少年非行の矯正と治療』を読むと、精神鑑定は並大抵の苦労ではなかったことがわかります。
当初、永山則夫は友好的でいんぎんであり、石川義博医師の精神鑑定に対する考え方を理解し、共同して生い立ちから犯罪までの事実を明らかにしていくことを約束した。
面接のたびごとに自分から挨拶し、質問には真面目に正直に答えるなど、きわめて協力的であった。質問がわからないと、冷静に問い直し、正確に詳細に幼小児期からの自分の気持ちや事実を述べようと試みた。
鑑定は順調に進展していくと思われたが、回を重ねるにつれて、自分の内心に忠実のあまり、ごくごく細部まで詳しく話そうとしては、たびたび質問からそれ、自由連想のように次々と飛び、長々と説明しようとした。
面接は常に長時間に及び、鑑定書の完成はいつになるかわからなくなりそうだった。
そこで、石川義博医師は聴き入る態度は続けながらも、話が質問の目的からあまりにもそれたときは注意を促し、元へ戻そうとせざるをえなかった。
そのつど鑑定の目的を話すと、彼は納得するものの、たび重なるにつれて「自由に語らせてくれない」と言ってしだいに不機嫌になっていった。彼は、自分の知るすべての事柄を納得ゆくまで話さないと気がすまないのであった。強迫的であった。それは彼の勉強の仕方や著書と共通する特徴であった。
石川義博医師はほとほと困りぬいた。そのころ、折悪しく彼には弁護団の解任や出版社との契約などのがふりかかってきた。それらの現実から押し寄せるストレスも重なった彼は、「弁護団や出版社とのいざこざを、すべて、すぐ解決せよ」と迫った。無理難題であった。
堀川惠子『永山則夫』に、出版関係の中に『無知の涙』の発行部数をごまかして印税をくすねる者がいたとあります。
弁護団とのいざこざですが、武田和夫『死者はまた闘う』にはこのように書かれています。
1971年6月、死刑を求刑され、支援者たちは新たに弁護団をつくって心理をやり直すことをすすめ、永山則夫は弁護人を解任、第二次弁護団が選任された。
1873年、第二次弁護団が石川義博医師に精神鑑定を依頼し、翌年1月から4月まで鑑定を行なわれた。
永山則夫は精神鑑定を自分にとって良かったと言っている。
永山則夫の法廷での態度が変わっていった。
「情状はいらない。死刑をくれ」と自棄的な態度で居直っていた初期の頃と違い、傍聴席に向かって涙ながらに深く頭を下げ、犯行をわびた。
ところが、1974年10月、第二次弁護団の主任弁護人が辞任し、1人を残して他の弁護士を解任。
『死者はまた闘う』にはこの間の事情は書かれていませんが、静岡事件についての考えが永山則夫と弁護団では合わなかったのかもしれません。
1968年11月、名古屋の事件の後、永山則夫は事務所に侵入して通帳と印鑑を盗み、銀行で金を引き出そうとした事件です。
この事件で永山則夫は起訴されていません。
1973年5月、法廷でこの事件は自分がやったと告白しています。
自分の犯した事件に向き合うためだと武田和夫さんは書いています。
1975年、支援者が一新し、永山則夫の要望に添って3名の弁護団が静岡事件の事実審理を法廷で追及することを方針とした。
石川義博医師は精神鑑定を進めるどころではなかった。
彼は暗い顔をして沈みこみ、押し黙り続けたあげく、突然、爆発的に興奮し、怒り狂った。その有様は精神病のようで、それまでの心の余裕は一片もみられなくなり、理性的な判断や判断から行為への筋道もほとんど自由性を失って、選択を越えた必然のごとく振る舞うのであった。
鑑定を開始した時の友好的、協力的態度はなくなった。
後に振り返ってみると、彼のこの激変ぶりは、彼の人生での生き方や行動の特徴であった。奇しくも精神鑑定中に、彼の行動パターンを眼前に見ることができたのであった。このことは、精神鑑定にとっては非常に参考になったが、このさき鑑定を終えることができるのかどうかさえ危惧される状況に追いこまれたのである。
この困難な状況をどのように打開するか。
永山則夫の態度の激的ともいえる変化は心の奥に潜む苦しみや悩みの現れであり、精神的な症状ないし障害として臨床的かつ治療的に扱わざるをえない。
本来の精神科臨床医に立たなければ、精神鑑定を続けることはできない。
当初の心を開いた自由な供述を得るためには、永山則夫が解決できず苦悩している問題を理解することから始めねばならなかった。
徹底して言い分を聴き、折り重なった要求を整理し、順位をつけさせた。
次に、今すぐに解決すべき問題を選び出し、当事者と折衝し、解決を図った。
10日間にわたる努力の結果、ようやく話す気持ちになり、面接は再開された。
協力関係が深められる中で、再び内面的生活史が語られ始めた。
さまざまの体験が思い出され、微に入り細にわたって供述されていった。幼小児期から学童期、職歴を経て犯行に至る事情と心理は、それまでの供述調書にみられない則夫本人にしか知りえない事柄に満ちていた。今度こそ則夫の犯罪に至る過程がより深く明らかにされるのではないか、と期待がふくらんだ。則夫は、思う存分に話す自分の供述を聞いてもらえることに喜んでいるように見えた。このころの彼は血色も良くなり、かなり太り、笑顔を絶やさず、人あたりも良くなっていた。彼の言い分が通り、自分の心が十分に表現されたときの彼の行動様式であった。
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