三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

キリスト教はどうしてローマ帝国の国教となったのか

2010年02月05日 | キリスト教

キリスト教やイスラム教がどうして世界宗教になったのか、不思議に思う。
タイムマシンに乗って教父を何人か殺したとしても、キリスト教はやはりヨーロッパ全体に広まっただろうか。

ローマ帝国はキリスト教を弾圧したと思われがちだが、多神教のローマ人は宗教に極めて寛容であり、不寛容なのはキリスト教のほうだということは、J・B・ビュアリ『思想の自由の歴史』に詳しく書かれてある。
キリスト教は自らの不寛容さのために弾圧されるようになったのだが、それにもかかわらずローマ帝国のキリスト教勢力が強大になった要因は何か。

塩野七生『ローマ人の物語ⅩⅡ 迷走する帝国』にその要因が紹介されている。
まず『ローマ帝国衰亡史』のギボンである。
1,断固として、一神教で通したこと。
2,魂の不滅に象徴される、未来の生を保証する教理を打ち立てたこと。
3,初期キリスト教会の指導者たちが行ったとされている奇跡の数々。
4,すでにキリスト教に帰依していた人々の、純粋で禁欲的な生き方。
5,規律と団結が特色のキリスト教徒のコミュニティが、時代が進むにつれて独立した社会を構成するようになり、そのキリスト教徒の社会がローマ帝国の内部で、国家の中の国家になっていったこと。

そしてドッズ教授の説。
1,キリスト教そのものがもつ、絶対的な排他性。
2,キリスト教は、誰に対しても開かれていたこと。
3,人々に希望を与えるのに、成功したこと。
4,キリスト教に帰依することが、現実の生活でも利益をもたらしていたこと。

両者の説の詳しい説明は省きます。

塩野七生説です。
ローマ人は現世的であったのに、ローマ帝国の衰退とともに希望を失ってしまった。
「ローマ帝国も三世紀後半になると、帝国内に住む人々に対して、「平和」を与えることができなくなったがゆえに、「希望」も与えられなくなってしまったのだ」
「(五賢帝までの時代の)ローマ人には、アイデンティティ・クライシスは存在しなかったのである。なぜわれわれは生きているのか、という問いには、自信をもって答えることができたのであった。それが、三世紀には、答えられなくなってしまったのだ。(略)一般の人々が直面していたのは、死後や将来への不安よりもまず先に、知的で生活にも恵まれた人ならば味わう必要のない、現に眼の前にある欠乏と不安であった」

外敵の来襲、たび重なる課税、経済の停滞、社会福祉の弱体などなどの結果として、ローマ人は希望を喪失したのである。
「キリスト教の勝利の原因は、実はただ単に、ローマ側の弱体化と疲弊化にあったのである」

ローマ帝国とキリスト教の抗争にとってのとどめの一撃が、ローマの神々とキリスト教の神の性質のちがいだと、塩野七生氏は言う。
「キリスト教の神は人間に、生きる道を指し示す神である。一方、ローマの神々は、生きる道を自分で見つける人間を、かたわらにあって助ける神々である。絶対神と守護神のちがいとしてもよい。しかし、このちがいが、自分の生き方への確たる自信を失いつつある時代に生まれてしまった人々にとっては、大きな意味をもってくることになったのだ」
「他者の信ずる神まで認めることが信仰の真の姿だるとする考えに慣れていたローマ人にさえも、キリストの教えが魅力的に映るようになったのは、ローマの神々の立場が弱くなり、神々も疲れ、それゆえ自分たちを守ってくれる力がなくなったと人々が感じたからだと思う」

希望を失った人にとっては、自分の行動を自分の責任で選ぶよりも、超越的存在の命令に従うことを好むということなのかもしれない。
「キリスト教がその後も長きにわたって勢力をもちつづけているのは、いつまでたっても人間世界から悲惨と絶望を追放することができないからである」
だからローマ帝国全盛期のローマ人にはキリストの教えは必要なかった、と塩野七生氏は書く。

塩野説に従うなら、先行き不透明の現代において、アメリカではキリスト教福音派の信者が増えていること、イスラム国家で原理主義が大きな勢力となっていることは、ローマ帝国でキリスト教が国教となったことと無関係ではないかもしれない。
上坂昇『神の国アメリカの論理』によると、リベラルなプロテスタント主流派教会の多くは所属教会員数が減っている。
その一方で福音派は信者を増やし、
「毎週の礼拝参加者が一万人を超える教会をギガ・チャーチとしている。従来のメガ・チャーチは2000人以上とされる。アメリカの教会トップ100のうち、ギガ・チャーチに入るのは35もある」そうだ。
聖書の神話的記述を現代に生かすためにどう解釈するかなんて面倒なことよりも、原理主義者となってすべて文字通りの真実だと信じこむほうが楽なことはたしかだ。
といっても、自分の都合よくということだが。

たとえばイスラエルとアラブとの争いだが、アブラハムは神との契約で「カナンのすべての土地を、あなたとあなたの子孫に、永久の所有地として与える」(「創世記」)と言われた。
アブラハムには子供がなかったので召使との間に生まれたのがイシュマエル。その後、妻はイサクを生む。イサクの子孫がユダヤ人であり、イシュマエルの子孫がアラブ人である。
どちらも神から与えられた土地だとして自己の正統性を主張する。

地球温暖化についても、上坂昇氏によると、地球の平均気温が上昇していることを示す明確な証拠があるとアメリカ人の8割が認め、地球温暖化が深刻な問題だと考える人も8割。
しかし、白人エバンジェリカル(福音派)は「温暖化のたしかな証拠がある」は70%だが、「温暖化は人間活動の結果」と考える人は37%にすぎない。
聖書は不謬だと言いながら、自分の都合のいいように解釈しているにすぎないと異教徒の私は感じる。

で、イスラム教だが、どうして連戦連勝して、あっという間に世界帝国になったのか、そしてマレーシアやインドネシアといった中近東とはまったく異なる風土でも受け入れられたのか、そこらも不思議です。

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