ニコニコ動画の「「死刑」を訴える被害者遺族の声をきく~闇サイト殺人事件から10年~」という討論番組の文字起こしがされているサイトを万年中年さんに教えてもらいました。
http://originalnews.nico/45811
「闇サイト殺人事件」の被害者遺族である磯谷富美子さんのお話を読むと、被害者や遺族の方が死刑を求めるのは当然だと思います。
しかし、それでも死刑存置論には賛成できません。
この討論番組で死刑存置派が主張しているのは次の2点だと思います。
①被害者遺族が死刑を求めているから死刑は必要だということ
②冤罪と死刑制度の是非は別問題だということ
裁判員や被害者遺族の処罰感情で判決に違いがあっては、法の下に平等という原則に反することになると思います。
死刑を求める被害者遺族ばかりではありませんから。
髙橋正人弁護士はこのように語っています。
どこの刑法の本にも書いてありますが、刑法の本質は応報刑論です。何かと言えば、悪いことに対しては悪い報いで行うという、「目には目を歯には歯を」です。これがまさに応報です。
この意見にはいくつかの疑問を覚えます。
・どんな殺人事件でも死刑にすべきなのか
警察が2016年に摘発した殺人事件(未遂を含む)770件のうち、55%が親族間で起きています。
https://mainichi.jp/articles/20170411/ddm/012/040/061000c
つまり、被害者遺族の多くが加害者家族・親族でもあるわけです。
そして、動機の多くは心中や介護・養育疲れです。
この人たちも「死をもって責任をとる」べきでしょうか。
・殺人と傷害致死
殺人罪の刑罰は死刑または5年以上の懲役(無期懲役も含む)ですが、傷害致死罪は3年以上の有期刑です。
殺人と傷害致死の違いは、殺意のあるなしです。
https://www.bengo4.com/c_1009/c_1208/gu_147/
滋賀県の料理店で店主が客から2時間以上も暴行を受けて亡くなるという事件がありました。
加害者2人は傷害致死で逮捕されています。
殺意がなかったとしても、ご家族にしてみたら殺されたとしか思えないでしょう。
しかし、遺族は法律で定められた最高刑で納得するしかありません。
死刑制度がなければ、死刑以外の判決を受け入れるのではないでしょうか。
・加害者の自殺
加害者が事件を起こしたあとに自殺することがあります。
自殺するという形で「死をもって責任をと」ったのでしょうか。
・応報刑
刑罰の歴史は寛刑化の歴史です。
現在はただ罰するだけでなく、犯罪者の更生、社会復帰が考えられています。
死刑の執行も苦痛の少ないものに変わっています。
アメリカでは被害者遺族が執行に立ち会うことができます。
死刑囚が苦しんだように見えなかったことに釈然としない遺族もいるそうです。
応報ということだったら、被害者は苦しみながら死んだのだから、死刑囚も同じような苦しみを与えて殺すべきだという意見が出てきます。
車でイエメン人の子供をはねて殺してしまった人を父親が車で轢き殺すというイエメンや、夫の不倫相手に硫酸をかけられて顔がただれ両眼を失明した女性に、加害者を失明させる権利があるという判決が下りたイランのように日本もすべきだということになります。
http://blog.goo.ne.jp/a1214/s/%E3%82%A4%E3%82%A8%E3%83%A1%E3%83%B3
髙橋:刑務官は大変ですか? では被害者に執行のボタンを押させてください。それで結構です
青木:それは仇討ちですよね。
髙橋:仇討ちではございません。国家の判断がなく、自分の判断でやるのが仇討ち。国家がやらないなら私たちがやりましょう、というだけのことです。
憲法36条で「公務員による拷問及び残虐な刑罰は、絶対にこれを禁ずる」とあります。
被害者遺族にとっても死刑の執行は残虐なことだ感じるのではないかと思います。
>平成28年版犯罪白書によりますと、平成27年の地方裁判所における殺人罪の死刑・懲役等の科刑状況は、死刑が2件、無期懲役が7件、15年を超え30年以下が44件、3年を超え15年以下が167件、3年以下が94件です。
https://www.keiji-lawyer.jp/boryoku/satsujin/qa1/
で、この「闇サイト殺人」の三人のうちのひとり、堀被告は別の事件でも強盗殺人に問われています。 https://mainichi.jp/articles/20151216/k00/00m/040/136000c
こういう人をどう考えるかですね。
https://blog.goo.ne.jp/tennen-okita-ret-1/e/28d8913a4ad5198ee792e50e5f2e036a
>「死刑を執行する刑務官のことを考えたら制度に賛成できない」
ブログ主さんがよく話題にあげることですが、まあ死刑制度を肯定する(元)刑務官さんの意見もあるのだなあ、と。
https://www.youtube.com/watch?v=7FHFYmNGE3Q
堀慶末死刑囚も作品を出しているんですが、カットされているようです。
フォーラム90の会報には講評が載っていて、会報は捨ててしまったので正確ではないんですが、すごくどうしようもない人間が支援者との関わりの中で変わっていくことが感じられるそうです。
万年中年さんもご存じの浜井浩一さんは、
「犯罪者を見る目が、警察官、検察官、裁判官、刑務官と法務教官、保護観察官で全然違うことに気づきます」
「立ち直る姿を見る機会があるかどうかというのが一番大きいのかもしれない」
と書かれています。
アムネスティの人たちが刑務所への施設見学をした時、刑務官の説明・質疑応答で「死刑をどう思うか」と刑務官に質問したら、「刑務官の中で死刑に賛成している人はいない」という答だったそうです。
刑務官でもいろんな考えの人がいるということでしょうね。
「立ち直る姿を見る機会があるかどうかというのが一番大きいのかもしれない」
>「死刑をどう思うか」と刑務官に質問したら、「刑務官の中で死刑に賛成している人はいない」という答だったそうです。
というのは、何か統計があって言われていることなのでしょうか。死刑廃止派の菊田幸一さんの次の統計では刑務官26人中25人(96.8%)は賛成で、また前回の調査では34人中26人(76.5%)が賛成になっています。
https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/bitstream/10291/3873/1/horitsuronso_62_4-5-6_17.pdf
私は統計がどうであれ、自分の考え方はこれこれこうだ、と述べればいいと思うのですが。
アムネスティの人たちが話を聞いた刑務官は3.8%の1人だったんでしょうね。
最澄さんは、『守護国界章』において、真実の教えに耳を傾けない謗法者の徳一さんは地獄に堕ちると考えていたようです。しかし、さらに後の世でその考えを改め、成仏するとも言われてます。
http://moromoro.jp/morosiki/resources/200403Jaibs.html
ブログ主さんは、死刑にせず、ひとびとが殺人犯に関わっていけば、今生において必ず「立ち直る」「更正する」とお考えなのでしょうか。
わたしは、最澄さんのように今生では無理かも知れないけど、何度か生まれ変わったら、それも可能かなと思ったりなんかして、、、
ブログ主さんは、今までの議論で生まれ変わりをお認めにならないようですが。
これを読む限りでは、西本願寺の教義でも、霊の存在は認めないけど、死後、浄土で教えを信じるものは再会する。しかし、そこで悟りを開いたものは、この世にもどってまだ迷っているひとびとを救う(つまり浄土の教えを伝える)というのが、だいたいのお考えのようです。
けれど、大谷派の教学では、霊も死後の世界も、輪廻転生もお認めではないようです。この後半では、鈴木隆泰・山口県立大学教授の①釈迦は、『スッタニパータ』ほか初期仏典(原始仏典)のいたるところで、「死後の世界」について言及している。②『ジャータカ(本生譚=ほんじょうたん)』など仏典のいたるところで、「死後の世界」だけでなく、生前の世界(前世、過去世)についても語られている、との説が紹介されています。
http://kokorookiraku.cocolog-nifty.com/blog/2006/08/post_7e1e.html
他にも田上太秀先生も「極悪人にも仏性はある」と主張されてます。
http://h-kishi.sakura.ne.jp/kokoro-530.htm
生き物は、他の生き物のいのちを奪って生きながらえる。また、種の保存のために同じ仲間の間でも闘争し、ライバルを殺戮する。
殺人のようなものは強盗、つまりモノやお金を奪って自分の生存のためにやるものもあれば、痴情のもつれのようなものによって引き起こされるものもある。
が、まったくそれには当てはまらない動機によるものもある。
さて。同じ信念体系。「人権」や「仏性」などという概念を共有していないものとどうやって共存していくのか。そういう哲学的問答のほうが、自分には「死刑廃止」とか「死刑存置」の問題より関心があったりなんかして。
後半が訳され、闡提にも仏性はあるから仏になる可能性があるという考えが正しいことが明らかになりました。
死刑囚が必ず立ち直るかどうかはわかりませんが、矯正不可能、つまりこいつらはどうしようもないという考えはしたくありません。
鈴木隆泰さんは死後の生や前世について釈尊が説いていると言われていますが、並川孝儀さんは釈尊は輪廻や来世は否定的にしか語っていないと言われています。
『ジャータカ』は釈尊が死んだあとのものですし。
文化がまるっきり違っていたら、同じ土俵に立つことが困難ですが、しかし人類の歴史はその試行錯誤だったわけで、時間はかかっても、お互いの立場を尊重するという理解が広まっているんじゃないですか。