死刑の存廃問題の討論で、冤罪についても話し合われています。
http://originalnews.nico/45811/3
髙橋弁護士は冤罪があることを認めています。
冤罪を生む温床だなとつくづく思います。検察もそうです。遺族や被害者自身の調書をとるときに立ち会ったことがあるのですが、私はびっくりしました。
被害者は少ししゃべっただけで、その後は検察官が作文して事務官にパソコンで打たせているだけなのです。加害者の立場でやられたらたまったもんじゃないなと、つくづく思いました。
被害者遺族である御手洗潔さんはこのように語っています。
警察は被害者の調書も作文するわけです。
ところが、高橋弁護士は「制度がどうあるべきか」ということと、「制度の弊害を小さくするか」というのは分けて考えるべきだと説きます。
そして、自動車による交通事故で毎年6000人が亡くなっているが、だからと言って自動車社会はなくならないと述べ、どんな制度にも弊害はある、制度の持つ弊害をできるだけ小さくしようというのが本来のあるべき姿であって、制度をなくすということにはならないと言います。
たしかに自動車社会はなくなりませんが、制度は変えることができます。
かつて両親祖父母を殺す尊属殺人罪は無期懲役または死刑のみでした。
1950年、最高裁で尊属殺人を含む尊属加重刑罰は合憲とされました。
ところが、15年も性的虐待を受けていた娘が父親を殺した事件で、1973年に尊属殺の厳罰化規定は違憲との判断が下され、被告は執行猶予の判決が出ました。
そして、尊属加重規定が削除されました
上谷さくら弁護士も高橋弁護士同じ意見です。
現行犯など絶対に冤罪ではない事件もありますよね。そういった冤罪の可能性が一部にあるということで制度全体をやめるというのは、論理の飛躍かなと思います。
無実なのに死刑になる人がいるから死刑制度を廃止すべきだということが、どうして論理の飛躍なのでしょうか。
冤罪で処刑されるという弊害をなくすことができるのなら、そうすべきです。
冤罪があるから、死刑の執行は停止し、冤罪がなくなれば執行を再開するという提案を死刑存置派の人がしてもいいように思うのですが。
また、現行犯であっても、計画性の有無、殺意の有無、情状によって量刑は違います。
現行犯だから死刑だとは、単純には言えません。
森達也氏と山田廣弁護士のやりとりです。
山田:間違いをなるべくしないように……。
森:なるべくでいいんですか。
山田:仰ったように、やはり人間ですから。神ではないのですから、可視化にしても、捜査の分析能力にしても、常に科学的分野で努力を重ねている途中です。
ですから「間違いはない」とは言えません。
森:そうですよね。ですから、なるべく間違いのないように裁判を目指しましょうということは一致できますが、それで死刑にしてしまったら取り返しがつかない。
もしかしたら冤罪で処刑されている方もたくさんいるかもしれない。死刑という、取り返しがつかない制度をどうするのかという考え方も可能だと思います。
冤罪によって死刑になったとしても仕方ないと、上谷弁護士や山田弁護士は言ってるように私は感じました。
1949年、イギリスでエヴァンスという人が妻と娘を殺したと死刑判決を受け、執行されました。
ところが、1953年に他の殺人事件で逮捕された加害者が、エヴァンスの妻子を殺したと自白します。
エヴァンス事件がきっかけとなって、イギリスでは死刑廃止論が盛んになり、1969年、イギリスは死刑を廃止しました。
ところが、日本では冤罪だと認められた死刑囚がいるにもかかわらず、死刑を廃止しようという気運があまり起きません。
冤罪で死刑になることを他人事としてしか考えない人が少なくないのだと思います。
自分の子供が無実なのに死刑執行されても、それでも死刑は必要だと言う人がいるでしょうか。
磯谷さんは「他人事としてではなく自分に降り掛かったらどうだろうと、今一度お考えください」と語り、髙橋弁護士は「娘や息子は殺されて生きて帰ってこないのです。償いようがありません」と言っています。
「仕方がない」と思うことは他人事だと考えているからですし、他人事にしてしまうということは、原発や沖縄の基地といった問題ともつながっていると思います。
被害者が恨みや怒りを抱え続けるのではなく、別のものに変えていく支援が、被害者支援だと思います。
死刑を求める被害者遺族ばかりではありません。
2006年に長女の歩さん(当時20)を殺された中谷加代子さん(56)は「怒り」を消し、刑務所で加害者たちと向き合う活動を始めた。伝えるメッセージは「幸せになって」。加害者を「責める」ことなく、常に「寄り添う」。(略)
中谷さんには、志を同じくする仲間が2人いる。
その1人は、神奈川県の小森美登里さん(60)。1998年に高校入学直後の長女を失った。いじめが原因の自殺だったという。(略)
もう1人の仲間は東京都在住の入江杏さん(60)だ。2000年末に起きた「世田谷一家殺人事件」で妹一家4人を殺された。(略)
小森さんもそれまで、加害者に働きかける活動を10年以上も続けていた。他の被害者遺族には、加害者への強い怒りが消えず、苦しんでいる人もいた。もちろん、それも理解できるという。しかし、怒りを持つだけでは、犯罪をなくすことはできないのではないか、と考え続けていた。
https://news.yahoo.co.jp/feature/710
あれっと思ったことが1つあります。
刑務所では風呂の水や飲料水その他を別々に会計処理しているのでしょうか。
森氏が藤井誠二氏と対談した本の中で言い切っておられます。
「ブッダは死後の世界や輪廻転生などについてはまったく言及していません」
うん、見事にご自分の言葉にあてはまる(笑。
http://urx.mobi/JD0y
罰が死刑でなければ、冤罪だったとしても取り返しつきますか?時間ならば取り返せると本気で思っていますか?
冤罪で死刑になるよりも恐ろしいのは、人を殺めた者が人生を全うする不公平と不条理です。言い換えるならば「殺害する権利」を認めてしまうことです。
不条理を断ち切るための手段が死刑なのです。
死刑反対派というのは、なぜこうも独りよがりで近視眼的な視点しか持たないのでしょうか、私にはそれが不思議でなりません。その独りよがりな姿勢こそが、長年にわたり賛同する向きが一向に増えない死刑廃止論者の限界なのでしょう。
特に処刑されたら、もうどうしようもありません。
自分や家族、友人が冤罪なのに死刑になっても、やっぱりやむを得ませんかね。
死刑を廃止することは殺害する権利を認めることになるという意見は論理の飛躍だと思います。
逆に死刑を認めることが殺害する権利を認めることになるんじゃないでしょうか。
人を殺めた者は人生を全うすべきではないとするなら、すべての殺人犯は死刑にすべきだということでしょうか。