スティーヴン・フリアーズ『クイーン』という映画は、ダイアナ妃が交通事故で死んで国葬が行われるまでの王室、特に女王を描いたもの。
のぞき趣味的ではあるが、女王に敬意を払っているように感じた。
ピーター・ディキンスン『キングとジョーカー』は1976年出版の小説。
エドワード7世の長男アルバート・ヴィクターが肺炎で死なず、ビクター1世として王位に就き、孫のビクター2世が国王という世界の話。
エドワード7世は女好きだし、ビクター2世は妻妾同居しているし、王室の血を引く人物が突然登場したりというわけで、王制批判の小説かというと、そうではない。
やはり王室に好意的である。
英国民は王室をどう思っているか、ディキンスンはこう言う。
「半分の者は王室を晴れがましい〝のぞきからくり(ピープショー)〟と見、半分の者は交通渋滞をひき起こすお金のかかる存在だと思っている」
「ピープショー」とはのぞきからくりの見せ物というより、H系のほうではないだろうか。
雑誌の新聞広告の見出しを見ると、皇室報道はピープショーだなと思う。
国を憂えているふりをしながら、よその家のもめごとに口をはさんで楽しんでいるとしか思えない。
日本の皇室報道はイギリスに似てきたのかもしれない。
「ガラスの家」に住む人たち、すなわち王族は「内輪の顔」と「よそゆきの顔」を使い分けると、ディキンスンは登場人物に語らせる。
そうしないと自分が保てないからなのだが、それを許さないのが皇室批判記事を書く人たちだと思う。
雅子妃非難をする人たちはウツ病がどういう病気かをわかっていない。
あるウツ病の人は医者から「薬をやめるなんてことは目標にしちゃいけませんよ」と言われたそうだ。
そんなに簡単に治るような病気ではない。
ところが雅子妃非難は、自分の責任を考えていない、どうしてもっと頑張ろうとしないのかということで、自己責任論ともつながっている。
たとえば、派遣切りや路上生活するのは本人の責任もあるという暴論と同じ発想のように思う。
湯浅誠氏は『貧困襲来』に
「本当に悲惨なのは、この「あんたのせい」を、本人が「たしかに自分のせい」と納得してしまうことだ」
とある。
これは貧困についてなのだが、ウツ病患者にもあてはまる。
「自分のせいだ」と思い込んで、自分を追い詰めてしまう。
「〈貧困〉は自己責任論と相容れない、〈貧困〉は自己責任論の及ばない領域ということだ。〈貧困〉に陥った人に対しては、人はそれが「本人の責任か」を問う前に、その状態を解消しなければならない」
同様に、ウツ病になったのなら本人の責任を問う前にまずはその状態を何とかしなければならない。
なのに、追い込まれている状態をそのままにして、みんな頑張っているんだ、自分で何とかしろというのは無茶だと思う。
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