三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

滅罪とカルマの浄化(5)

2022年11月22日 | 仏教

 4 苦行(つづき)
統一協会に1億円以上の献金をしたり、借金をしてまで献金する人がいることが明らかになっています。
しかし、京都仏教会HPによると、献金の強要は非難されるべきではありません。

物欲を捨て、執着を離れ、あるが儘にすべてを受け入れ、生を神にゆだねて生きるということを知性で理解することはできても、現実にそのように生きることは容易ではない。したがって、宗教によっては献金の指導通してこれを実践的に体得せしめようとする教団もあるのである。そして物欲を離れる体験を得させるためには、しばしば当人が無理だと感じるほどの金額であることが必要になる場合がある。もちろん、それは対象者の信仰の状態を見極め、慎重に指導を進めなければならないわけで、指導に失敗すればトラブルに発展することもありえる。しかし、このような指導は一概に批難されるべきものではなく、実際このような体験を通して信仰に生きる喜びを獲得する者もいるのである。

http://www.kbo.gr.jp/books/kenkai-02.htm

加藤基樹「苦行と滅罪」(『日本の宗教と文化』)にこうあります。

「御布施」とか「香典」というものには苦行とか滅罪という意味があります。(略)「身銭を切る」ということで苦行性というふうにいえます。

「無理だと感じるほど」の献金を強いられて、無理をしてまで工面するのは苦行でしょう。

 5 罪とケガレ
肉体は不浄であり、苦行によって肉体を浄化すべきだと考えられました。
断食、断穀、断塩は肉体を清浄にするためです。
アップル荒井しのぶ「法華経と苦行と滅罪─東アジア仏教のパースペクティブ1」にこうあります。

身体の不浄性は煩悩という内的存在の不浄性と関連付けられている。したがって、このような不浄観念が「(罪を重ねてゆく身体を、良い服や食べ物で)更に覆い養はず」というように、断穀断塩、蔬食という、生体に対する抑圧的行為に結びついていると考えられよう。すなわち、断食行という苦行は、罪をつくる主体である自己の内的存在の不浄性に対峙し、浄化するため、すなわち滅罪のために、その内的存在の「仮舎」であるところの身体を極限まで制限し抑圧すること、また捨身行者にとっては身体それ自体の損壊をすら目的とした宗教行動と考えられる。


また、世間も不浄だと考えられています。

浄穢の観念が罪の有無に基づく形で発達したことで、それはとりわけ空間的認知の点から、仏道修行者が苦行を行う山林/山岳と在俗の人々の属する里、都市である「人間(じんかん)」を、それぞれ浄穢を軸にして観念する思考法として展開した。


山林や山岳は清浄であり、人間の住む世界が不浄=罪というわけです。

深山について「清浄善根の境界」とし、欲愛などの煩悩を持つ者達が住む地を「人間」としており、その浄穢の違いは「罪が滅しているかどうか」によって決定されている。

https://www.totetu.org/assets/media/paper/k024_266.pdf

オウム真理教でも世俗=罪だと説いていました。
広瀬健一『悔悟』です。

当時私は、会話をするなどして非信徒の方と接したり、街中を歩いたりすると、カルマ(悪業)が自身に移ってくるのを感じました。これは、気体のようなものが振動(ヴァイブレーション)を伴いながら身体に入ってくるような感覚でした。また同時に、表現し難い不快な感覚も誘起されました。まるで、自身の生命活動を維持している源が、蝕まれるような。そして、この感覚の後に私は、自分が気味悪い暗い世界にいるヴィジョンや、奇妙な生物になったヴィジョン――カンガルーのような頭部で、鼻の先に目がある――などを見ました。


罪とケガレ、滅罪と鎮魂(ケガレを祓う)は関係があるそうです。
滅罪は奥の深いテーマです。

 6 滅罪の得益
①死後に三悪道に堕ちない
②死後に人・天に生まれる
③死後に仏国土に往生する
④来世の安楽
⑤除災招福

オウム真理教では、カルマの浄化は三悪道に堕ちない手段です。
滅罪も本来は解脱が目的ですが、実際には現世における災いを防ぎ、利益を得ることが求められていました。

アップル荒井しのぶさんはこう指摘しています。

『霊異記』当時の人々の滅罪の捉え方は、煩悩などの執着を断ち切って解脱するとか、罪空思想など仏教教理の上からの理解の仕方ではなく、大祓の儀式によって全ての罪が悉く無くなるように、災いや苦しみとしてあらわれる罪を祓い、贖い、免れることという理解だったと考えられる。

https://www.totetu.org/assets/media/paper/k022_222.pdf

滅罪に期待した庶民の信仰の目的が現世利益です。
加藤基樹さんによると、お百度参りも苦行です。
お百度参り(裸足、お茶断ちなど)という苦行で病気の原因である罪を滅することで、病気平癒が叶うと信じられました。
これは代受苦という考えです。

カルマの浄化を求める気持ちは日本人にとってごく自然な感情なのかもしれません。

河口慧海『チベット旅行記』に、カムの人は泥棒が多く、聖地を巡礼して今まで作った罪を消すと同時に、これからも泥棒をするので、これから作る罪も消してもらうよう祈るといったことが書かれています。
滅罪行は過去の業だけでなく、未来の業をも消すと信じられているわけです。

 7 滅罪批判
『歎異抄』に滅罪の利益を批判しています。

一念に八十億劫の重罪を滅すと信ずべしということ。この条は、十悪五逆の罪人、日ごろ念仏をもうさずして、命終のとき、はじめて善知識のおしえにて、一念もうせば八十億劫のつみを滅し、十念もうせば、十八十億劫の重罪を滅して往生すといえり。これは、十悪五逆の軽重をしらせんがために、一念十念といえるか、滅罪の利益なり。いまだわれらが信ずるところにおよばず。


中村元『仏教語大辞典』の「懺悔」の項にこうあります。

大乗仏教では、自己の罪を認めた者は諸仏の前に懺悔し、帰投し、摂受されて罪の恐れから解放されるという形のものになった。


私たちは罪報を恐れるわけですが、本当の滅罪は罪をなくすのではなく、罪の報いを恐れる必要がなくなったということではないかと思います。

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