三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

西田幾多郎と家族の死 1

2010年10月05日 | 
名前はみんな知っているけど著書を読む人はあまりいないという有名人はマルクスやダーウィンたちがいるが、西田幾多郎もその一人だと思う。
仏教伝道協会が出している冊子に、西田幾多郎が娘を亡くした気持ちを綴った文章が引用されていた。
「あきらめなさいよ、忘れなさいよ、といってくれる人がいるが、これは親にとって堪えがたいことである。せめて自分だけは一生思い出してやりたいというのが親の心である。この悲しみは苦痛といえば苦痛だが、しかし親は苦痛のなくなるのを望まない」
どういう随筆なのかとずっと思っていたのだが、「藤岡作太郎著『国文学史講話』序」だった。
『西田幾多郎随筆集』には「我が子の死」と改題されている。
少々長いが、一部を引用。
「亡き我児の可愛いというのは何の理由もない、ただわけもなく可愛いのである、甘いものは甘い、辛いものは辛いというの外にない。これまでにして亡くしたのは惜しかろうといって、悔んでくれる人もある、しかしこういう意味で惜しいというのではない。女の子でよかったとか、外に子供もあるからなどといって、慰めてくれる人もある、しかしこういうことで慰められようもない。ドストエフスキーが愛児を失った時、また子供ができるだろうといって慰めた人があった、氏はこれに答えて“How can I love another Child? What I want is Sonia.”(どうして別の子を(ソーニャの代りに)愛することが出来ようか。私の欲しいのはソーニャなのだ)といったということがある。親の愛は実に純粋である、その間一毫も利害得失の念を挟む余地はない。ただ亡児の俤を思い出ずるにつれて、無限に懐かしく、可愛そうで、どうにかして生きていてくれればよかったと思うのみである。若きも老いたるも死ぬるは人生の常である、死んだのは我子ばかりでないと思えば、理においては少しも悲しむべき所はない。しかし人生の常事であっても、悲しいことは悲しい、飢渇は人間の自然であっても、飢渇は飢渇である。人は死んだ者はいかにいっても還らぬから、諦めよ、忘れよという、しかしこれが親に取っては堪え難き苦痛である。時は凡ての傷を癒やすというのは自然の恵であって、一方より見れば大切なことかも知らぬが、一方より見れば人間の不人情である。何とかして忘れたくない、何か記念を残してやりたい、せめて我一生だけは思い出してやりたいというのが親の誠である。昔、君と机を並べてワシントン・アービングの『スケッチブック』を読んだ時、他の心の疵や、苦みはこれを忘れ、これを治せんことを欲するが、独り死別という心の疵は人目をさけてもこれを温め、これを抱かんことを欲するというような語があった、今まことにこの語が思い合されるのである。折にふれ物に感じて思い出すのが、せめてもの慰藉である、死者に対しての心づくしである。この悲は苦痛といえば誠に苦痛であろう、しかし親はこの苦痛の去ることを欲せぬのである」
仏教伝道協会の冊子はこの部分をわかりやすくまとめたわけである。

西田幾多郎はどういう人なのかを知りたくなり、上田久『祖父西田幾多郎』を読む。
西田家は数ヵ村の庄屋を勤めていたが、父親が米相場で失敗して没落し、そして父の女道楽のために両親は別居する。
西田幾多郎は家族を次々となくしている。
明治16年、師範学校に一緒に学んでいた4歳上の次姉が、幾多郎14歳の時にチフスでなくなる。
「『国文学史講話』の序」(「我が子の死」)の中で、「回顧すれば、余の十四歳の頃であった、余は幼時最も親しかった余の姉を失うたことがある、余はその時生来始めて死別のいかに悲しきかを知った。余は亡姉を思うの情に堪えず、また母の悲哀を見るに忍びず、人無き処に到りて、思うままに泣いた。稚心にもし余が姉に代りて死に得るものならばと、心から思うたことを今も記憶している。」と書いている。

明治37年、日露戦争で弟が戦死した。
手紙に、「理性の上よりして云へば軍人の本懐と申すべく、当世の流行語にては名誉の戦死とか申すべく、女々しく繰言をいふべきにあらぬかも知らねど、幼時よりの愛情は忘れんと欲して忘れ難く、思ひ出づるにつれて堪へ難き心地致し候」と書き、そして「人生はいかに悲惨なるものに候はずや」と書いている。
また別の手紙でも「余は昨年受けたる心の傷は未だ癒ざるなり。愚痴と笑ひ玉ふな。人生の問題は深く且つ大なり。心強き人はいざ知らず、余の如き多感なる弱き心には誠にtoo heavy burden(余りの重荷)なり」とある。
弟の死後、弟の妻は再婚させ、生まれたばかりの姪を手許に置いて養育している。

明治28年5月に結婚し、翌年に長女が生まれるが、父との関係で妻が実家に帰り、激怒した父は明治30年5月に離縁させる。
妻と離婚したといっても、明治31年6月に長男が生まれている。
明治31年10月に父が死に、明治32年2月に妻と和解する。

西田幾多郎には8人の子供がいるが、5人に先立たれている。
明治40年1月、数えで6歳になったばかりの次女が死ぬ。
この娘のことを書いたのが「『国文学史講話』の序」である。
「ある時の塾会で、病気で死んだ子供のことをくり返し言うので、河合が、「先生のような悟りを啓いているお方でも、亡なった子供さんのことをそうクヨクヨ思われるのですか」と言ったら、幾多郎は大きな声で、「馬鹿」と叱りつけて、「いくらクヨクヨいっても亡なった子供は再び生き返ってくるか」と論理に矛盾したようなことを言ったそうである」
友人への手紙にも、「丁度五歳頃の愛らしき盛の時にて、常に余の帰を迎へて御帰をいひし愛らしき顔や、余が読書の際傍に坐せし大人しき姿や美しき唱歌の声や、さては小さき身にて重き病に苦しみし哀れなる状態や、一々明了に脳裡に浮び来りて、誠に断腸の思ひに堪えへず候。余は今度多少人間の真味を知りたる様に覚え候。小生の如き鈍き者は愛子の死といふごとき悲惨の境にあらざれば、真の人間といふものを理解し得ずと考へ候」
5月には四女と五女の双子が生まれるが、五女は一ヵ月で死んでいる。
そして11月に「『国文学史講話』の序」を書いている。

大正7年、母の死。
大正8年6月に長女が結婚、9月には妻が脳出血のため倒れる。
手紙には「意識の方は大分よくて大抵の事は分り候が身体は全く動くを得ず未だに昨年九月倒れたまゝにて候」とある。
それから5年あまりを病床で過ごし、大正14年1月になくなる。
おまけに大正9年6月に、三高生の長男が急死する。
「死にし子と夢に語れり冬の朝さめての後の物のさびしさ」

大正10年、三女が肺を病み、入退院をくり返す。
三女はカリエスが残り、病身のために結婚しなかった。
大正11年、四女と六女が腸チフスで入院。
四女は予後がよくなく、日記に「終身跛となるか狂となるかの岐路に立って居る我子の行末を思ふも寸時も心のくもりはれる時はない」と書いている。
「もともと智能の遅れていた友子(四女)は、この時の後遺症か、後には一人前の判断力を持たない娘となってしまった」
西田幾多郎が文化勲章をもらった翌年の昭和16年4月に、精神科に7年ほど入院していた四女が亡くなる。
昭和20年2月に長女が急死、そして6月に西田幾多郎は死ぬ。
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