三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

中島隆信『お寺の経済学』

2006年03月15日 | 仏教

あるお寺の寺報に中島隆信『お寺の経済学』が紹介されていて、なるほど、おもしろい。
コンビニは全国に4万軒、お寺の数は7万5千。
坊さんは約30万人、全従業者の200分の1なんだそうだ。
200人に1人が坊さんとなると、坊さんは珍しい職業ではない。

日蓮がなぜ攻撃的だったのか、説明がおもしろい。
宗教という市場において、一般庶民はすでに浄土宗と禅宗に奪われていた。
後発の参入者は既存業者から顧客を奪い取らなければならない。
しかし、信仰は商品のように簡単には取り替えられない。
したがって、信仰という市場の場合、新規参入者が顧客拡大を図るためには他宗に対して批判的にならざるをえない。
説得力があります。

中島隆信は、経済学と仏教は車の両輪だと言う。

経済学は自転車の後輪だ。ペダルをこぐと後輪が回転し、自転車は前に進む。しかし、後輪だけでは自転車は不安定で、どこへ行くかわからない。そこで必要となるのが、前輪の役割をはたす仏教だ。前輪は自転車の行先をコントロールし、私たちの社会が間違った方向に進まないように正してくれるのである。

五木寛之が、経済はアクセル、政治はハンドル、宗教はブレーキだ、と言っているが、自転車のたとえのほうがいいように思う。

寺は公益法人だが、寺にはどういう公益性があるのだろうか。
『お寺の経済学』の説明です。

商店で品物を買えば、店員が「ありがとうございました」と言う。

お金を受け取る側がお礼を言うのが普通である。
ところが、世の中には客のほうから「ありがとうございました」と言ってお金を支払う取引がある。
その相手は医師、教師、そして僧侶など。
どうしてなのか。

客のいう「ありがとうございました」は、相手に支払うお金がサービスの「対価」なのではなく、「お礼」を意味するということなのだ。教師や医師は困っている人を救う仕事だ。僧侶も同じである。人々を現世の苦しみから救う菩薩行を実践するのが僧侶の役目といえる。
本来、僧侶の仕事とはそういうものだ。対価を要求しない。誰でも困っている人がいたら救いの手を差し伸べる。そしてお礼は後から受け取る。その金額はいくらでも構わない。
私たちが心から「ありがとうございました」といって僧侶に布施をできるかどうか、これがお寺の提供しているサービスの公益性をチェックする大きなポイントなのだ。


神社の賽銭―結果(ご利益)を期待しての前払い
寺院の布施―仏の慈悲、救いへの感謝
なるほど、病気が治れば、お金では表わすことのできない感謝の気持ちを医者に持つ。
我々は教師や医者から教育や治療を与えられるという期待を持っている。
そして、成績が下がったり、病気が治らないなど、結果が思うようにいかなかった場合、感謝はしない。

では坊さんはどうか。
おそらく、人は死者の救いを坊さんに期待していると思う。
しかし、死者が救われたかどうかはわからない。
だから、寺がつぶれずにやっていけるということです。

ところが、少子高齢化や核家族化といった世の中の変化は、お寺と檀家との安定した関係を崩しつつあり、今のままではじり貧である。
地域密着型寺院の場合は今まで通りの形で存続していくだろうが、檀家制度が崩れていくと予想されるお寺にとって、今後とも生き残っていくためには基本的に三つの道があると、中島隆信は言う。
 1,葬祭全般のサービス業としての道―葬式仏教の完全なビジネス化
 2,現世利益サービス提供の道
 3,布教活動への道

企業をはじめとする一般の業者は常に世の中の変化をキャッチすべくアンテナを張り巡らしている。変化について行けなければ存続の危機に立たされるからだ。信仰の世界もそれと同じである。(略)「信仰市場」は行政の関与が少ない自由な市場である。お寺が事業者として絶えず市場に注意を配り、消費者である信者のニーズを吸い上げるために工夫することは当たり前である。

実際、葬式のビジネス化にからんでいる寺はあるし、多くの宗派はすでに現世利益のサービスを提供している。
心から「ありがとうございました」と布施をいただくような布教活動への道は困難である。

中島隆信はさらにこう言う。

お寺の再生を図る道は一つしかない。それは墓をお寺から切り離し、檀家制度を一度完全に解消することだ。現在のままでは信者はお寺を選べない。(略)
まずは信者に選択の自由を与えるべきである。そして本当にお寺に来たいと思う信者だけを改めて集めなおせばよい。そのとき、住職の真価が問われることになる。宗派の教えをわかりやすく説き、信者の心を引き付けることのできる僧侶が支持されるだろう。

これは厳しい。
もしも墓というつながりがなくなれば、寺と檀家との縁は簡単に切れてしまう。
そうなった時に、凡人住職が「信者の心を引き付ける」ことができるとは思えない。
どうしたらいいのか。 

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6 コメント

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更なる頭痛の種かもしれませんが。。。 (うにゃにゃ)
2006-03-29 18:08:12
はじめまして。

お寺、難しいですね。

僧侶派遣業なんてのもあるようです。

「お布施の低価格化の実現」なんてうたっているところもあります。(www.hoyumedia.com/co/ej/zensyu-ren/body.html)



なぜ低価格にできるかというと、檀家の少ないお寺さんや、お寺のないお坊さんとして後を継げないといった方々に協力をお願いしているからだそうで。。。



利用者の側からすれば安くすんで、お坊さんの側からすれば仕事もらえて新規顧客獲得のチャンスもらえて、双方にとってうれしいことなんでしょうけど、、、胸中複雑です。

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商売として徹してますね ()
2006-03-30 10:51:10
コメントありがとうございます。

聞くところによると、葬儀屋お抱えの坊さんがいて、その坊さんは僧籍を持っていないけど、どの宗派のお経でもOK、とのことです。

ま、葬式の導師は僧籍を有していなければいけない、なんて法律はありませんからね。

法話にしたところで、プロに涙と笑いをちりばめた原稿を書いてもらえばいい。

わけのわからない下手な話をする坊さんより、見た目がよくて声のいい人のほうが門徒さんも喜ばれるでしょう。



それにしても、教えていただいたサイトを見まして、これじゃね、と思いました。

そもそも寺のほうが悪いんでしょうけど。
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ビジネスですね(--;) (うにゃにゃ)
2006-03-30 16:53:02
ビジネスとして成り立つとしても、宗教としては破綻してしまいますね(*_*)

布施は読経というサービスの対価として払われるものじゃない、喜捨なんだ、というのがお坊さん側の主張が崩れてしまう気が。。。

しかもこの団体の代表の方、真宗の住職資格持ってるようなことおっしゃってます。

どこの派かはわかりませんが。

真宗といったら、都市開教に熱心で、都市部の宗教的浮動層への伝道についてかなり力入れて取り組まれていた印象があるのですが、そうした宗門からこのような活動する方が生まれるとは。。。



でも仏教界においては誰も何も言えないってところがあるのでしょうか。「そもそも寺のほうが悪い」ってことで。。。



悲しいですね。。。(;_;)



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どっちもどっちでは ()
2006-03-30 20:27:45
代表の方の本音はどうなんでしょうか。

お聞きしたいところです。



>仏教界においては誰も何も言えないってところがあるのでしょうか。

問題にはされています。

しかし、需要と供給ですから、多くの人が求めているのはそういうことなんでしょう。

坊さんとしてはそれだけじゃない、と言いたいのですが、実際、あくどい話を聞くこともありますから、坊さんの責任はあります。
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静かに静かに (うにゃにゃ)
2006-03-31 20:20:51
日本仏教のこれからを見守っていきたいと思います。

あれこれお話させて下さり、ありがとうございました(^^)
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こちらこそ ()
2006-04-01 08:04:45
こちらこそありがとうございました。

これからもご批判ください。
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