某氏から、ドルジェタクの度脱とオウム真理教のポアの違いは「カルマを背負う」という概念の有無だとの指摘をもらった。
なるほど、ドルジェタクには、度脱したら相手のカルマを引き受けることになるという発想はないように思う。
それは償債も同様である。
考えてみると償債とは自分勝手な理屈だと思う。
悪いことをしたら三悪道に堕ちる。
悪道に堕ちるよりも現世でけりをつけたほうがいい。
だから、自ら進んで殺されるなどの非業の死を遂げることによって業報を果たす。
そして、三悪道に堕ちることを防ぐ。
理屈としては一応もっともではあるが、しかしおかしい。
殺す側からすれば、殺すことによって相手の業を消すかもしれない。
しかし、殺したことによって、今度は自分が悪業を作ることになる。
殺される側にしたら、殺されることによって自分の業を果たすわけだが、そのために他の人間に悪業を作らせるという新たな罪を作ることになる。
これじゃ業は永遠に消えないのではないか。
他人のカルマを背負うという問題、自己の救済のために他者に悪業を作らせるという矛盾を麻原彰晃なりに解消したのが、「心の解放されていない者は、これを行なってはならない」ということだと思う。
もっとも、心の解放されている者とは麻原彰晃しかいないわけで、心の解放されている者は何をしてもかまわないという理屈になるわけだが。
仏教ではずっと業報を恐れてきた。
吉川忠夫『読書雑志』によると、『六度集経』にこんな話があるそうだ。
一人の婆羅門の修行者が喉の渇きをおぼえて、国人が蓮華を植えている池の水を飲む。
「吾は其の水を飲みしに、其の主に告げず。斯れは即ち盗みなり。夫れ盗みの禍為るや、先ず太山(地獄)に入り、次いで畜生と為り、市に屠売せられて以て宿債を償う。若し人と為ることを獲るも、当にと為るべし。吾、早く今に於いて畢し、後患を遺す無きには如かじ」というので、婆羅門は国王のもとへ罪の裁きを求めた。
池の水を飲んだぐらいで地獄に堕ち、畜生として殺され、奴隷になるわけである。
『智度論』にもこうある。
「我は今、悩を受くるも亦た本行の因縁なり。今世の所作に非ずと雖も、是れ我が先世の悪報なり。我は今、之れを償う。応に当に甘受すべし。何ぞ逆らう可けんや」
ほんのちょっとしたことであっても、報いとしてさまざまな苦しみを何度も受けなければならない、という教えは残酷だと思う。
ところが、『歎異抄』には「念仏者は、無碍の一道なり。そのいわれいかんとならば、信心の行者には、天神地祇も敬伏し、魔界外道も障碍することなし。罪悪も業報も感ずることあたわず、諸善もおよぶことなきゆえに、無碍の一道なり」とある。
業報からの解放が救いなわけである。
宿世ということを櫟暁師は、過去世ではなく、「自分の意志以上の処」という意味だと話されている。
「自分の意志や自分の能力ではどうしてみようもない迷であります。それを宿業というのでありましょう」
どうにもならない、不如意を認めてまかせることが業報からの解放なら、なんとなくうなずけます。