三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

チベット密教とオウム真理教 6

2010年06月18日 | 問題のある考え

ラマ・ケツン・サンポ師は「密教は、瞑想があたえるあざやかな直接体験を得ることで、すみやかに覚醒にいたろうとするものである」と、神秘体験によって悟りを得るのが密教だと説明している。
中沢新一氏もこう書いている。
「ラマによる灌頂と口頭伝授をつうじて、わたしの前に開示されたゾクチェン=アティヨーガの世界は、そうした言葉どおり、わたしを深々とした神秘体験のとば口に導いてくれた。現象の世界をつきやぶって、本然の心の輝きが、見開かれた修行者の眼前に、たちのぼる虹、とびかう光滴、あざやかな光のマンダラとしてたちあらわれるようになる」
神秘体験にあこがれながら、神秘体験を経験したことのない私があれこれ言うのもなんだが、神秘体験はそんな大したもんなのだろうかと今は思う。

神秘体験の疑問として、ある神秘体験を経験したとして、その体験が悟りと関係あるかないのかを誰が判断するか、ということがある。
空海が室戸岬の岩屋で求聞持法を行い、明けの明星が空海の口に飛び込んできたという話がある。
だけど、ヤマギシ会の特講でも変性意識になるそうで、太陽が身体の中に入ってきたと言う人もいるそうだ。
ヤマギシ会のは睡眠不足と疲労、精神的に追い込まれるなどによって幻覚を見たんだろうけど、空海の体験はそれとどう違うのかと思う。

ある神秘体験が悟りか魔境かは、師匠や指導者、あるいはマニュアルに従って判断されるということになるのだろう。
オウム真理教ではどういう体験したかを自己申告し、それによってその信者のレベルがどの程度かを決めていたという。
しかし、師匠の判断が正しいかどうかがわからない。
師匠に盲従しなければならないのなら、師匠が間違っていても、弟子は従うしかない。

また、神秘体験を求める中で精神に異常をきたすことがある。
それをどうやって防ぐか。
伝統教団では危険を制御する適切な指導方法が伝えられているそうだ。
でも、ある先生が『観経』の「清浄業処」(業処は観想)の説明の中で、タイの僧院で修行していた日本人僧が精神的におかしくなったという話をされたことがある。
まして、新宗教は経験の積み重ねがないから、何らかの事故が起こりやすいという危険がつきまとう。
オウム真理教でも、修行中の弟子が死亡した事故があり、それきっかけとなって暴力的傾向が強まっている。
あるいは、クンダリニーが覚醒したら、指導者がいないと精神病になると、オウム真理教では脅していた。

また、神秘体験を経験する時間はわずかであり、生きているうちの大部分は日常の時間なのに、特殊な体験を絶対化すると、日常を軽んじることになるのではないか。
ここらへんはますますトンデモ的こじつけになってると自分でも思うが、この日常の軽視ということは輪廻の考えと無関係ではない。
ポアや度脱が正当化されるためには、輪廻の実在が前提である。
輪廻の実在は神秘体験で実証される。

ラマ・ケツン・サンポ師は「仏教は、わたしたちの心または意識が、始まりとてない無限の過去から一度たりととぎれることなく連綿と流れつづけてきた、という真実から出発する。この心の流れのことを「心の連続体」と呼ぶことにしよう。さてこの心の連続体は輪廻する世界にあらわれて、次から次へと再生をくりかえしてきた」と、霊魂の実在を認め、輪廻の実体を説く。
だから、ラマ・ケツン・サンポ師の次の話は単なるたとえではない。
ナローパがティローパのところを訪れたとき、ティローパは魚を焼いて食べていた。
「この時のティローパの行動には深い意味がこめられている。ティローパほどの卓越した密教行者には、魚のような生きものを動物の状態から救いだし、より恵まれた環境に移してやれる力がそなわっていた。そこで魚を焼いて食べていたのである。これはインドの成就者の中に昔から行われていた方法で、別の有名な成就者サラハなどは矢で射殺して生きものを救い、また別のある成就者はこの法を行なったため「狩人」と呼ばれていたという」
魚も済度されるべき衆生だから、「高度の心の状態にある者が、低い状態にある他者を殺すこと」なわけでして、魚を食べるのも一種の度脱である。

輪廻を説く人は、来世で悪道に堕ちないよう行いを正しなさいと勧める。
だけど、在家はいくら善行を積んでも解脱はできない。
出家にしても長い時間がかかる。
百年という単位ではなく、千年、一万年という長い時間を見すえている。
しかし考えてみると、一万年後にも人類が存続しているというのは楽観的すぎると思う。
もしも地球上の生物が滅亡したら、もはや輪廻のしようがない。
生まれ変わりをくり返しながら霊的に成長するという考えは、現世の軽視であると同時に、あまりにも楽観的な未来観だと思う。
ついでに言うと、終末論にしてもそうで、エホバの証人では、ハルマゲドン後に人類のほとんどが滅びるが、選ばれた人、つまりエホバの証人だけは生き残ると考えている。
これもご都合主義的独善的楽観論としか思えない。

追記
『口伝鈔』にこんな話があるのを思いだした。
親鸞が袈裟をつけたまま魚を食べたのはなぜかと聞かれて、こう答えた。
「食する程ならば、かの生類をして解脱せしむるようにこそ、ありたくそうらえ。しかるに、われ名字を釈氏にかるといえども、こころ俗塵にそみて、智もなく、徳もなし。なにによりてか、かの有情をすくうべきや。これによりて袈裟はこれ、三世の諸仏解脱幢相の霊服なり。これを着用しながら、かれを食せば、袈裟の徳用をもって、済生利物の願念をやはたすと、存じて、これを着しながら、かれを食する物なり」
これはティローパが魚を食べる理由と同じだと思う。

コメント
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