三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

吉川忠夫『読書雑志』第十章「償債と謫仙」1

2010年06月25日 | 仏教

「償債」という言葉を私は知らなかったが、債務の償還、借金の返済という意味なんだそうだ。
この償債、仏教や道教などの文献では独自の意味で使われていると、吉川忠夫『読書雑志』にある。
「「償債」なる言葉に、宿世における罪業を非業の死をもって償うという観念が託されているのである」
たとえば、禅宗の二祖とされる慧可の最期。
慧可は匡救寺の門前で無上道について説法をはじめた。
匡救寺では辯和法師が講義をしていたが、聴講者は講席を抜け出して慧可の説法のもとに集まった。
腹にすえかねた辯和は県令に讒言し、慧可は処刑された。
慧可の最後を償債とよんだ。
つまり、償債とはカルマの清算ということである。

後漢の訳経僧安世高の最期も償債である。
話はこみ入っているのだが、安世高は前世では首を切られて死んだが、それはさらにその前世における罪の報いだと、安世高自身が語っている。
安世高は前世で自分を殺した少年を探しだすと、少年は以前に犯した罪を悔いる。
そして、少年と会稽へ行き、市場に入ったとたん安世高は喧嘩のまきぞえをくって一命を落とした。
安世高は業がいまだに尽きていなかったために、現世でも殺されたわけである。
吉川忠夫氏は「幾重にも積みかさなった宿世からの罪業、一人の少年によって斬られてだけではまだなお「余報」がのこるほどの深く重い罪業を背負った人間の姿を安世高に託したのである」と書いている。
「宿世における罪業の報いを非業の死によって果たす」という話は、曇無讖や竺法慧らの最期もそうで、これら高名な僧侶が前世の報いとして殺されて命を終えているとはいささか驚きでした。

吉川忠夫氏は「償債の観念が仏教の輪廻応報の思想と一体のものであることは疑いがない」と指摘する。
『高僧伝』「安世高伝」には、「三世の徴有ることを明らかにせり」と記されている。
三世とは、前世、現世、来世のこと。
「仏教に接した中国人にとってもっとも理解がむつかしかったのは、仏教の輪廻の思想と応報の思想であったという。(略)中国人が仏教の輪廻の思想と応報の思想とになじみにくかったのは、そもそも中国には過去、未来、現在を貫通する三世の観念がなく、また「積善の家には必ず余慶有り、積不善の家には必ず余殃有り」、善を積んだ一家にはきっと幸福が子孫に及び、不善を積んだ一家にはきっと災厄が子孫に及ぶ、という『易経』の言葉に代表されるように、応報を個人にかかわる問題ではなく、祖先と子孫との家族間に生起する問題と考えることが伝統となっていたからである」
「ところが、仏教本来の思想では、応報はあくまで個人にかかわる問題である」

家ではなく、個人への応報という考えには輪廻の思想が必要になる。
というのは、応報の思想とは善行には善報、悪行には悪報がおとずれるということだが、個人の応報だと現実にはそうなるとはかぎらない。
そこで、応報と輪廻が合体して、「行為にたいする応報には、現生において受ける報いである現報、来生において受ける報いである生報、二生、三生、あるいは百生、千生の後に受ける報いである後報、これらの三種がある」という都合のいい理屈が生まれるわけである。

ただし、償債とは殺されることだけではないそうだ。
「非業の死はいかにもドラマチックであり、「三世の徴有ることを明らかにする」うえにまことに効果的だと考えられたからであろう。しかしながら、償債はなにも非業の死を遂げることによってのみ果たされるわけではない。死後の埋葬を行わず、自分の肉体を鳥獣に布施するところのいわゆる屍陀林の葬法が、宿世からひきずってきた罪業にけりをつけ、来世にまで背負いこまぬことを保証する償債の行為と考えられていた」

カルマの法則は仏教だけではなく、道教にも取り入れられた。
「輪廻応報の思想と一体の償債の観念は、本来、仏教に固有のものであったはずであるが、それはやがて道教にもとりいれられるところとなった」
道教では謫仙(仙界からの追放)と償債の観念が合体している。

王志謹という道士の語録にこういうことが書かれている。
「ありとあらゆる感情むきだしの誹謗中傷、なぐりあい罵りあいの喧嘩口論、面とむかっての嫌がらせなどなど、すべて前世の因縁が結んだところの旧くからの冤(あだ)なのであって、現世で返済せねばならず、何はともあれ歓喜してひきうけるべきである。言い訳することはさしひかえ、わが身にひきとって辛抱してこそ返済しおわったということになるのだ。いさかいをおこすなら、それでもう債務を返済しないのとおなじこと、煩悩はいっそう深く積まれ、冤は重ねて結ばれ、永久にけりをつける時はない」
これと同じように、カルマの法則を援用して道徳をもっともらしく語る人は宗教界以外にも結構いますね。

償債や謫仙ということだが、吉川忠夫氏は「誤解をおそれずにあえて言えば、キリスト教の原罪の観念にきわめて近いものが示されているといってよいのではあるまいか」と言うが、それはどうかと思う。
吉川忠夫氏はこのことについて説明していないのでよくわからないが、自分ではどうすることもできない罪を背負って生まれてくるという点で近いということかもしれない。

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