三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

チベット密教とオウム真理教 4

2010年06月12日 | 問題のある考え

オウム真理教の暴力のより重要な要因は何か。
島薗進『現代宗教の可能性』には、「筆者はオウム真理教でいうところの「ヴァジラヤーナ」の教えとそれに関連するさまざまな教えや実践の果たした役割が大きいと考える。ヴァジラヤーナの教えはオウム真理教の信仰世界の中核に近いところに位置しており、その比重は終末予言やハルマゲドンの観念よりもはるかに重い」とある。

ヴァジラヤーナはいくつかの意味で語られるとして、島薗進氏は四つあげている。
(1)
「いっさいのものに動かされない金剛の心をつくること」
「いっさいの心を動かす要因から完全に解放され、そして自由になることである」

つまり、暴力を行使することをためらうのは煩悩だということになる。
島薗進氏は「「金剛の心」を育て断固たる意志をもった個々人が、冷静沈着に暴力を遂行し、表情を動かすこともなく(あるいは明るく生き生きさわやかしなやかに)犯罪隠蔽の行動と発言を重ね続けることができたのだった」と言う。
(2)は省略。

(3)
「弟子の心の成熟のために、弟子に暴力を加えるなどの悪業をあえて犯すこと」
金剛の心口意を持たせるためには、カルマのけがれを取り除かなければならない。
「例えば、A君がB君を殴りつけたと。このとき、B君の今までの殺生などのカルマがA君に移行すると。そうすると、そこでA君はいっそう暴力的になり、そして身体を痛め、解脱に対する道筋を失われるようになると。例えば、A君がB君を罵倒したと。そうすると、今までのB君の口のカルマがA君に移行し、A君のアストラルはけがれ、そして本当の意味での神聖な、清らかなヴァイブレーションのマントラが唱えられなくなると。
しかし、ここで問題になってくることは、なぜA君がB君を罵倒しなければならなかったかであると。もし、A君の心の働きの中にB君を本当に真理に目覚めてほしいと、本当に真理を実践してほしいという心があったならば、例えば暴力を振るったり罵倒したりしたとしても、A君の心は成熟するであろうと。(略)なぜならば、A君は自分のなした行為、例えば殴ると、この行為によって自分の身のカルマはけがれると、例えば罵倒することによって口のカルマがけがれるということを知っているからであると。知っているというのは、頭の中で知っているだけじゃなくて、実際に経験しているからであると。しかし、もしA君がここでB君に対してそれを行なわなければ、B君は地獄へ落ちてしまうだろうと。A君がそう考えたとしたならば、これぞヴァジラヤーナであると」
島薗進氏はこれをまとめて
「この例では、①A君はB君に暴力を振るう。②A君はそれによって自己に悪業の報いがあることをよく知っている。③しかしB君が地獄へ落ちるのを妨げるには、暴力を振るうしかないことを知っている、という条件の下で、A君が暴力を振るうことをヴァジラヤーナの実践として肯定している」
暴力を振るうことで相手のカルマを自分が背負うことになるが、暴力によって相手を救うことになるというふうに、暴力が肯定される。
もっとも、このA君は誰でもいいわけではない。
ヴァジラヤーナの条件は、「身、それから口のカルマから完全に解放されていること」なので、「心の解放されていない者は、これを行なってはならない」
つまり、暴力の行使はグルやグルに近いレベルに到達した者にのみ許されるということである。

(4)
「高度の心の状態にある者が、低い状態にある他者を殺すこと」
「例えば、ここに悪業をなしてる人がいたとしよう。そうするとこの人は生き続けることによって、どうだ善業をなすと思うか、悪業をなすと思うか。そして、この人が若し悪業をなし続けるとしたら、この人の転生はいい転生をすると思うか悪い転生をすると思うか。だとしたらここで、彼の生命をトランスフォームさせてあげること、それによって彼はいったん苦しみの世界に生まれ変わるかもしれないけど、その苦しみの世界が彼にとってはプラスになるかマイナスになるか。プラスになるよね、当然。これがタントラの教えなんだよ」

島薗進氏はオウム真理教の暴力が二つの点で変化してると指摘する。
「師弟関係にある内輪のものに対する暴力から、一般他者、ないしは敵や妨害者と見なされた者に対するそれへの変化」
もう一つは、
「生存する相手の成長を願った教育的意図をもつ暴力から、そうした意図を放棄し、悪業を犯させないという善なる意図の名のもとに、こちらの利益に従って殺害を行なうこと、その意味での「ポア」による「救済」への変化」
つまり、弟子の指導のために行われる暴力が、一般人が悪を造るのを防ぐための殺害に変わってきたのである。

藤田庄市氏は『「世俗の尊さ」と「宗教的理想」』という講演でこんな話をしている。
オウム真理教では四無量心(慈悲喜捨)の捨を「聖無頓着」と言っていた。
「聖無頓着の修行、外的条件に心が動かされない精神を、彼らは手に入れようと修行しました。その修行によって、してはいけないことまで肯定できる状況になって、相手がどう考え、どう感じているのかなどを考えなくなる」
つまり、ヴァジラヤーナの「いっさいのものに動かされない金剛の心をつくること」とは、こういうことなわけです。
それで、藤田庄市氏は、
「麻原氏は、坂本さんを殺した早川紀代秀氏に対して「聖なる道は善悪を超えている。お前は善悪の観念が強いからそれを捨てなければいかん。人間的な情も執着になるから捨てよ」ということを言っています」
と話し、早川紀代秀と弁護人のやりとりを紹介する。
弁護人から「(坂本弁護士の)家族まで殺れと麻原に言われたときに、躊躇しなかったのか」と法廷で聞かれた早川紀代秀は、「躊躇はあった。しかし、子どもも含めてポアせよと言われ、かわいそう、やりたくないという気持ちが出ても、それが自分の良心であると思えないようになっている。本当の慈悲はグル(尊師)にしかない。ポアしろと言われれば、慈悲のないわれわれは反抗できない。やりたくないのは自分が汚れた気持ちだからだと思ってしまう」と答えている。
「相手の苦しみに無頓着になることが、慈悲だというわけです。禅宗では、これとおなじようなことが、いまも言われているのではないでしょうか」と藤田庄市氏は言い、そして
「宗教者は「善悪を超えている」というようなことをよく言うでしょう」
「こういうことは危険なのだと自覚してほしい。「聖」というものが非常に高みにあると思い込んでいるから、そういうことを平気で言うのだろうと思います」

と批判している。
ここらは難しい問題である。

正木晃氏は『性と呪殺の密教』で、ドルジェタクの度脱とオウム真理教のポアとの違いを、「ドルジェタクにしても、度脱の対象は彼を殺害しようとした者のみに限定されていて、オウム真理教のように、無関係の人々を無差別に大量に殺害する事態は絶えてなかった」と言う。
しかし、ドルジェタクがどういう人を殺そうとしたか、その実態はよくわからないし、殺人という行為をもっともらしく正当化した理屈は「聖」ということなわけで、オウム真理教が落ちた落とし穴は身近なところにあるんだと思う。

コメント
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