日常の軽視ということだが、正木晃『性と呪殺の密教』の注に、『バガバッドギータ』のこんなエピソードが書いてある。
アルジュナ王子は親族同士が殺し合うはめになり、血を分けた人々や親しい友人たちと戦わなければならなくなったために、戦意を喪失した。
クリシュナはアルジュナ王子に、肉体が滅びても個我は永遠に存続する、だから殺すとか殺されるとかいうことは、肉体の生滅にすぎず、大した問題ではないので、必要以上にこだわってはならないと説く。
そして、正木晃氏はこのように説明する。
「『バガバッドギータ』では肉体が滅びても個我は永遠に存続するのだから、殺すとか殺されるとかいうことは、肉体の消滅にすぎず、大した問題ではないと語られる。一方、ドルジェタクは、自分も相手も実在はせず、ともに幻化にすぎないのだから、殺すとか殺されるとかいうことは問題にならないと主張する。この両者は、片方はヒンドゥー教的な実在論、片方は仏教的な非実在論というぐあいに、まったく相反していながら、神の視点あるいは絶対真理の視点から、個別の生命体を無意味として切って捨てる点において、じつによく似ている」
クリシュナの言ってること、靖国の論理と似ていると思いませんか。
密教は仏教のヒンドゥー教化だと言う人がいるくらいで、輪廻の実在を信じるドルジェタクが非実在論者かはともかく、個の生命を軽んじるこういう考えの根本には現世の否定があると思う。
島薗進『現代宗教の可能性』に、「いったん出家してしまうと、一般社会がどうなるかに対する関心はどんどん薄れていく」とあることとも通じる。
悟りということからすると、一般社会がどうなろうと、一般人がどうしようと卑小な問題だということになる。
藤田庄市氏は『「世俗の尊さ」と「宗教的理想」』という講演でこんなことを話している。
「聖と俗と言ったときに、無意識のうちに何となく聖が上で、尊く優れていることを前提としていないか、と私は感じます」
「ここでいう「俗」とは、金儲けをしたいとか、昇進したいとかを言うのではありません。毎日を大事に生きること、何か超自然的な存在を因果関係にもち込まないで、きちんと自身で考え判断していくこと、慎ましやかに生きていくことなどが、俗の意味です」
「世俗の大事さをあらためて感じたのは、取材でオウム裁判の傍聴をしているときでした」
「(遺族の)調書と証言を聞いて私が感じたのは、オウムに殺された方たちが、いかに日々を懸命に生きていたかということでした」
「私は、世俗と言いますか、日常生活とか家族の尊さというものにあらためて気づきました」
「いわゆる欲望をそれほど出さず、超越的存在と関わりなく生きている。関わりなくというか、それでごまかさない。ごまかしの効かない生活ということが、世俗かなと傍聴席で感じていました」
「井上(嘉浩)氏は、裁判では反省し、麻原に反旗を翻して果敢に闘ったようなイメージがあると思うのですが、私はあまりそのようには感じていません」
「弁護士の要請により、仮谷さんの息子さんと井上氏が対話することを、裁判長が許可しました。そのとき井上氏は、「遺族の苦しみを自分の苦しみとして生きていきたい」と謝罪の言葉を述べました。遺族の苦しみを自分の苦しみとしてこれから生きていきたいなどと言ったら、宗教者はまず騙されるでしょう。しかし、仮谷さんの遺族は「あなたに苦しんでもらっても、われわれは少しもたすからない。そうではなく、あなたが本当に反省することだ」と言われました。法廷で井上氏の反省の浅さが見事に暴露された場面だと思います」
「麻原彰晃氏が、盛んにサリンについて言い始めた時期の『真理インフォメーション』という冊子に、「例えば、アリが十億匹いたとして、ある魂が火焔放射器を持っていたらどちらが強いだろうかと。これは何を意味するか。これはまさに魂の価値を意味する」という麻原の言説が載っています。この魂とは、人間という意味です。オウム信者の魂の価値と凡夫の魂の価値とでは、信者のほうが優れており、アリ十億匹に対してオウムの連中が火焔放射器でガーッと焼き殺すというようなイメージです。これは象徴的な文章ですが、彼らは基本的にこういう優越感をもっていましたし、残党はいまもそうでしょう」
「日々暮らしている人の、生活の尊さを感じさせる言葉を聞くとき、このオウムの人たちのような宗教犯罪者の言い分は浅薄だと感じます」
「妙好人は、それこそ日々の生活のなかで、信心をまさに蓮の華の如く美しくしていくわけです」
妙好人のことはリップサービスが混じっている気がするが、それはともかく、藤田庄市氏のオウム真理教批判は、坊さん批判でもあるし、ニューエイジやスピリチュアル批判でもあると思う。
世俗べったりでも困るが、世俗の軽視はもっと困る。