三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

人権と釈尊

2009年03月03日 | 仏教

犯罪者の人権よりも被害者のことを考えろ、という意見をネットではよく見かける。
加害者か被害者かという二者択一の問題ではないのだが。
犯罪を犯した人も社会に戻ってくるわけで、二度と犯罪を犯さないようにするにはどうしたらいいのかを考えるべきだ。
その意味からも加害者の人権も大切にしなければならない。

「フリーダムニュース」No.79に、倉田めば氏のこんな文章が載っている。
「それにしても、大麻所持や栽培で逮捕され、実名報道をされ、大学を退学処分となった学生たちのその後のサポートはどうなっているのだろう。断罪するだけしてあとは知らんというのでは、犯した罪の重さと下された罰のバランス感覚に、落差がありすぎはしまいか?」
大学生が大麻を吸ったので逮捕されたというニュース、たしかに騒ぎすぎで、捕まった大学生がこれからどうしたらいいのかを考えてなどいないと思う。

薬物依存症者の回復施設であるダルクの人の話を聞いた。
この人は覚醒剤依存だったのだが、薬物がとまったのは出会いが大きいと言われた。
「今まではクスリをやっとる人しか出会ってなくて、やめてるヤク中に会ったことがない。ヤク中とか売人しか知らない。それが、ダルクに入寮してやめとるヤク中に会うのは初めての経験でした。それで衝撃を受けて、俺にもできるんでないかなと。社会復帰して仕事をしている人、結婚して子供が生まれて幸せな家庭を築いている人が目の前にいるわけです。もしかしたら僕もこうなれるのかなという気になる。そういう人が一人、二人ではなくて、日本中に、世界にも大勢いるわけですよね」

アルコール依存症の自助グループAAや薬物依存症の自助グループNAには、先行く仲間とかスポンサーという言葉がある。
先行く仲間とは、アルコールや薬物がとまっている、私の一歩前を歩いている人のことである。
一人で酒やクスリをとめるのは難しいから、支えてくれる人、相談できる人、手助けをしてくれる人が必要である。
それがスポンサーである。
スポンサーとは上下関係にあるわけではないし、スポンサーの力でとまるわけではない。
疑問や悩みがあった場合、同じ経験をしていれば、「こうしたらいいんじゃないですか」とか「それはやめといたほうがいいんじゃないか」と言える。
信頼のおける先行く仲間がスポンサーで、水先案内人みたいなものなんだそうだ。
スポンサーに生き方のおかしさを提案され、どうするかは本人の問題であり、スポンサーの言うことに絶対に従わないといけないということはない。

話はどっと飛ぶのだが、釈尊在世時の教団では釈尊は弟子たちにとっての先行く仲間であり、スポンサーだったのではないかと思う。
釈尊はなぜ王子の地位を捨て、妻や子どもを捨てて出家したかというと、四門出遊という伝説がある。
王子の時、城の東西南北の四つの門から外に出て、それぞれの門の外で、老人・病人・死者に出会い、いやになって出家を決意した。
この話は実際にあったことではないが、釈尊はみんなを救おう、世のため人のため、ということが出家の動機ではない、年をとることや死ぬのがイヤだから出家したんだ、釈尊は我々と同じ凡夫だ、と語り伝えられてきたわけである。

阿難が「私たちが善き友をもち、善き仲間と一緒にいるということは、仏道修行の半分を成就したようなものだと、私は考えるのですが」と聞いたら、釈尊は「阿難よ、それは違う。私たちが善き友をもち、善き仲間と一緒にいるということは、仏道修行のすべてなのだよ」と答えている。
仏教教団は善い友の集まりだったわけで、釈尊と弟子に上下関係があったのではない。
植木雅俊『仏教のなかの男女観』によると、釈尊は自分のことを「善き友人」と言っている。
「善き友人」とは「あやまちを指摘し、忠告してくれる賢明な人」という意味である。
弟子は釈尊のことを「ゴータマ」とか「君」と呼んでいたそうだ。
そして釈尊は弟子たちに丁寧語を使って話しかけていた。
釈尊の弟子になるとき、釈尊が「こちらにいらっしゃい、○○よ」と名前を呼びかける。
そして、釈尊の教え、法に帰依すれば、それで仏弟子として受け入れられた。
インドは身分制度の厳しいところで、相手の身分に応じて言葉を使い分ける。
釈尊が使った「こちらにいらっしゃい」という言葉はバラモンに向かって使う言葉だから、最も丁寧な言葉なのである。
道路清掃人のスニータという女性、そしてアングリマーラという人殺しに対しても、釈尊は「我が弟子よ。こちらにおいで下さい」と呼びかけている。

悟った人がいれば、まだ悟っていない人もいる。
先に歩いている人がいれば、あとから歩いている人もいる。
そういう違いはあるが、みんな同じ道を歩いている仲間。
弟子として釈尊を尊敬し、大切にするけれども、教えの下ではみんな平等であり、師と弟子はともに同じ道を歩いている、というのが釈尊の教団だったのだろう。
同じ人間として一人ひとりを尊重し、大切にする、それが善き仲間ということであり、人権にもつながってくると思う。

コメント (31)
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